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HyogoKurumi.Scribble

私はこの社会が省略した事柄を言語化している人です。

発達障害の話。手探りの努力とは

【発達障害】
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 今日は発達障害の話をします。

 

 私は「アスペルガー障害」という、発達障害当事者の一人です。アスペルガーといえば「アスペ」などというネットスラングの広まりもあって、ここ近年で一気に認知度が高まりましたね。

 発達障害=アスペ、コミュ障=アスペみたいな、言葉の意味が一人歩きしてる背景もありますが、「発達障害? アスペルガー?」と、誰も知らなかったあの無認知時代を思えば、現状はどこか微笑ましくも思えます。

 

 中学生の頃から障害相当の自覚があったのですが、診断が下りたのは31歳の時です。中学生の頃は誰も、自分も、発達障害の事を知りませんでした。自分には障害レベルのなにかがあると思いながら生きていました。25歳の時に一度、全国的にも有名な大学病院の精神科で知能検査などを受けて数値結果を出して頂いたのですが、そこでも障害は否定という診断でした。で、31歳の時にハローワークに行った際、障害雇用に理解のある職場が良いですと、自分のこれまでの事と紹介先を希望する話をしたら、「貴方はもう一度診察を受けてみましょう。もう五年も経って、今は時代がかわっています」と、障害者雇用窓口の担当の人に言われて診察に行ったら診断が下りた、というわけです。

 

 なんで障害の自覚がもてたの?とか、人間関係とかどうだったの?とか、一番気になるところをすっとばしたような流れですが、今回はそこらへんの話じゃありません。努力の話です。

 

 

 世の中で努力とされる行動はいくつかあります。例えば「受験勉強」は努力と認識される行動だと思います。

 

 はい、あまり言わない言い方ですね。

 でもあえて声に出して言ってみましょう。

 

・受験勉強は、

・努力と認識される、

・行動だと思います。

 

 障害界隈ではこのような評価に値する動作を客観視した言い回しを活用することがあります。

 

 では、話を続けます。

 

 運動関係の練習も、それらの多くは真面目に行えば努力と呼ばれるかと思います。

 資格や技能習得も、努力と呼ばれているかと思います。

 

 これらを「定型努力」としましょう。

 

 

 発達障害に問われる努力はそれらと性質が異なります。

 発達障害者が抱える障害特徴の中でもポピュラーなものといえば「コミュニケーション難」「ケアレスミス」「習得難(学習・技術・知識)」の3種がいえるかと思います。他にもありますがここでは「よくいる系」の話とします。

 いま述べたものを「障害努力」としましょう。

 

 言葉だけでさらっというと、どれも努力次第でなんとかなるもののように思える一面もあるのですが、先に述べた「定型努力」と後に述べた「障害努力」では根本的に異なる部分があります。

 

 それは「参考元の有無」です。

 

 

 「定型努力」の方は、教えられる人や解説されている書籍、情報があちこちにあります。スタート地点とゴール地点が明確にしやすいものも多いです。

 

 「障害努力」の方は、それらの情報源がとても限られています。ネットの普及で情報量は増えましたが、正直申しまして、「思いつきレベルの内容」が「一生懸命書かれている」、そんな程度の情報が圧倒的に多いです。これは書店で売られている商業出版の本の内容も含めて私はそう言っています。

 

 私はこれを「手探りの努力」と呼んでいます。

 はい、もちろん、定型努力も「自分の勉強法を掴むことが大事」ですから、その観点からみればどんなものにも少なからず「手探りの壁」はあるわけです。

 ただ、「障害努力」は多くの場合、「はじめの一歩目」から「手探りの努力の壁」が立ちはだかるわけです。

 

 

 手探りの努力、そのスケールについて考え方の話をします。

 先に、「コミュニケーション難」と言いましたが、それは対人関係に限った話ではありません。

 教師の授業を聞くのも「コミュニケーション」です。そういう想像はできていましたか?

 

 もっと広げましょう。ペンを持ってノートに書く行為も、文具との「コミュニケーション」です。そこまで言ったらなんでも「コミュニケーション」という括りにできちゃうんですが、私がここで「コミュニケーション」という単語でそう言っているという点を除けば、この話のスケールを想像する上では、それくらいの認識で間違いありません。

 勉強にしたって、もし読字障害やそれに近い障害特徴があれば、教科書の文章を一行一行順々に読むだけでも困難になります。生まれつきですから、そもそも正常に読めている感覚を身体や脳が知らないというケースもあります。となると「ちゃんと読めた?」「うん、読めた」という確認をしてもあまり意味がありません。

 

 私もコミュニケーション難と文章を読むことが困難な時期がありました。

 コミュニケーション難に関して言えば、中1の頃から二十五歳くらいになるまで、どこにいても一緒にいる人から嫌われたり、距離を置かれました。決して「出会い不運」ではありません。

 読字困難といえば、学業時代はろくに教科書の内容も理解できませんでした。文字が顔に向って飛んでくる感覚があったし、国語の問題でよくあった「下記の物語を読んで主人公の気持ちを述べている~」などの読み取り系の問題は、そもそも何を尋ねられているかさえ理解できませんでした。考えるという感覚すらなかったので、例えば、三択や四択の中から一つの正解を選ぶ問題は、「どれが正解である可能性が高いか?」「前の問題は一つ目が正解だと思えたから、今回は一つ目を除外する」などといった「勘で答えること」がイコールで「問題の答えを考えること」でした。

 

 でも今はこんな風に文章が書けていますし、活字の本でもいくつかの本は読めるようになりました。文章問題の理解力も身についていますから、答えられなくても、何故答えられないのか、その理由を述べることもできます。必要な知識に当てをつけ、理解に至るまでに必要な学習プランをイメージして、その気になれば追いかけることもできます。

 

 どうしてできるようになったのかと聞かれれば、「五年間くらい、その日一日を全て記す日記を書いていたこと」「放浪の歩き旅をした体験」「小説を書きまくったこと」など、自分の場合はそういう回答になるかと思います。

   

 日記は今言ったとおりです。だいたい夜の10時頃から、長いときで、夜中に2時3時頃まで書いている日常をイメージして下さい。小説に関しても同様です。文字数に換算すれば、軽く一千万文字は超えているかと思います。ただ書いていただけではなく、日記は(もうずっと昔に削除しましたが)ウェブ上で晒してましたし、小説に関しても何度か商業大賞に応募したりと、人に読まれて判断されることを意識し、常に研究姿勢を持っていました。放浪の歩き旅は、愛知県の名古屋から、静岡、東京、埼玉と、歩いて旅したことです。状況によってはヒッチハイクしたり電車使うこともありましたが、直線距離では大体、名古屋から東京までの距離は歩いています。この時の体験が自分の感覚を進化させる最も大きな経験となりました。

 

 

 どれだけ大きく述べても、日記はただの日記ですし、小説だって、別に社会的に名誉のある賞を獲ったわけでもありません。これまでの行動によって得られた「資格」は一つもありません。履歴書にも書けません。

 

 日記と小説。これだけ並べれば「ただの趣味」ですし、自分の今の年齢は「三十歳」を超えていますから「そろそろやめたら?」と言いたくなる人がいてもそれは「一般的な感覚」と認められるでしょう。

 歩き旅だってホームレス状態の人間が長距離移動しながら日記書いてただけです。30万円ほど使いました。

 

 でも「障害努力」というのもは大体こういうものです。

 ゴールが明確ではないこのような行動を「努力の域」まで昇華させる必要があります。こういうことを自分の意思で克服イメージを持った上でしなくちゃいけないんです。

 

 私が日記の取り組みを始めたのは二十歳の頃からで、物書きを意識して文章を書き始めたのは二十五歳の頃です。今は三十二歳ですから、十二年間、形をかえつつ同じ事と向き合い続けています。

 言葉というものと真剣に向き合うようになったのは、自分の内に潜む何かと向き合い始めた中学生の頃からなので、その時からみるとプラス七年間。

 

 十九年から二十年間、言葉と向き合っているわけです。

 

「人間関係が上手く築けない者は大人になってもきっと生きていけないから、これを最優先でなんとかしよう」と、中学生の時に考えました。その通りに、必要な努力行動をとり続けました。後付ではなく、実際にそう思い、そう行動したまでの話です。

 

『普通の人ができて当たり前の事でも、いざ習得~克服しようと思ったら、特別な条件を満たせない限り、それは数年間か十数年に及ぶ習得行動になるだろう』という認識で、この話を受け止めて下さい。

 

 それを実行した私は、自身の異常性を他の当事者よりも少しだけ上手にコントロールができるようになって、「目の前の人と少し楽しくお喋りができる」ようになりました。

 喋り方もかわって、顔の筋肉もかわったので、表情も豊かになりました。なにもかもがかわりました。

 

 相手が障害当事者といえども、努力を促す話をしてはいけない、なんてことはないし、それを言わなければいけない状況や立場に、自分がなってしまうことがあります。

 

 これを読んでいる貴方にもしそのイベントが訪れたら、この記事の話を少しだけ思い出してみて下さい。

 絶対に求められるのは「最適な言葉」と「最適な期間」です。話し合いの時間と席を設けて、互いが理解と納得できるだけの言葉を交わしあいましょう。それで十分です。