HyogoKurumi.Scribble

人は、言葉からは逃れられない。

今年のまとめ。Taskeyとの出会い。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 成人発達障害へ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 自閉症スペクトラムへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害グレーゾーンへ



 2015年が終わります。

 今年の営みをざっくり言うと、1月から9月までは創作活動を休止していました。本業の自営は副業にして、工場で働いてました。10月からは自営を本業に戻し、創作活動を再開しました。

 

  「小説家になろう」で掲載していた作品を全て消した理由とか、なんにも言わずにツイッターを止めた理由とか、以前のアカウントで親しかった人たちも少しずつまた再フォローし合っているので、この2点について話しておこうと思います。

 

 

●「なろう」の作品を消したわけ

 

 話は二年前のちょうど今頃に遡ります。その頃の自分は、ハローワークに行って就職先を探そうとしていました。自営は開業届けを出してから一年経ったのですが、事業が思うように成長せず、このままではもうあと一年は持たないと判断できました。新しいなにかを始められる余裕もありませんでした。仕事の流れはできていたので、余力がある内に規模を副業レベルに抑えて就職の道を選んだというわけです。実際、このタイミングで転向してなかったら危なかったです。次年度は住民税の納付などもきましたから。

 ハロワで私は就職先の要望として、「障害者雇用に理解のある職場がいい」と話しました。それから自分のこれまでの経歴を少し話しました。そしたら障害者雇用の窓口に案内されました。で、そこの担当者に「もう一度再診察を受けてみましょう」と勧められました。

 私は中学の頃から障害相応の自覚がありましたが、ずっと医師の診察の機会に恵まれないまま生きてきました。25歳の頃に限界を感じて病院に行きましたが、知能テストの結果、障害は否定でした。それから健常者として生きていく覚悟をもった上で、創作活動に没頭し、現妻とも結婚しました。

 そうした経緯の中でまた診察の機会がこの場で訪れました。もう五年も経っているから状況は変わっていますという話もあり、私はこれが最後のつもりで診察に行きました。そして知能テストや心理テストを受けた末、翌年に発達障害の診断が提示されました。お医者様の配慮により、このまま健常者として生きていくかどうか、私は選択する事ができましたが、障害者として生きる道を選びました。

 もし一人で生きていたなら、このままでいいと答えたかもしれません。でも私にはいま妻がいて、社会的立場を明らかにして生きていくほうが適していると判断しました。何より今までの人生が答えを物語っていました。診断を受けることにとても悩まれる方も多いのですが、私の場合は二つ返事で診断結果を受けることにした感じです。

 

 ここでそれとは別に一つの検討事項が浮かびました。なろうに掲載している作品です。だってあれらは「普通の人として生きていく覚悟」の上で書いてきたものばかりでしたから、このままというわけにはいかなかったんです。特に『若者や社会人が発達障害かな?と思ったら読むところ』は定型として生きていく事に対する考え方がたくさん書いてありました。これからは考え方を切り替えていかなければいけない面も多く、どう考えても「昔の考え方の作品」になってしまったものをそのままにしておくってのはおかしいと思いました。なので最初は「非公開」にしようと思ったんですが、なろうには非公開設定がありませんでした。検索除外の機能があるだけです。それでは意味がないのでバックアップをとって削除しました。

 

 読書中だった人の為に、メールで作品を丸ごとお渡しすることも告知しました。発達障害関係の作品は大学生の方から希望のメールがあったので送りました。

 

 

ツイッターを止めたわけ。

 

 就職先は工場だったのですが、工場業務はこれまでに経験がなく、しっかりと業務に意識を集中する為に、創作活動やネットから一度切り離そうと考えました。親しかった人たちにはその旨の連絡をしようかとも思ったのですが、実はこの就職はわけありで、「障害者の診断」は得ていたものの「障害者手帳の申請中」で「障害者雇用窓口が選択できない」中で選んだ「一般雇用の就職先」で、つまり、障害者なのに一般雇用として働くことになっていたわけで、おまけに初業種の仕事だったということもあり、自分のこれからの道を厳しく見て、問答無用で断ち切るくらいでいいと、ある種の覚悟めいた意識に従って何も言わずにアカウント削除をしました。

 

 

●工場を辞めたわけ

 

 労働対価が工場勤務より、自営の方が上回ってしまったからです。

 元々自営の伸びが悪かったのは車がなくバイクだけで経営していたことが主な原因だったんですが、工場の給料と副業の収入が合わさって車はすぐに買えました。で、その後いつ辞めることになっても困らない状態になっていました。その中で、(あるタイミングでカミングアウトしたので)自分の障害の事を知っている同僚が何名かいたのですが、どうしても彼らには「障害者=障害を理由に努力を放棄している」といった先入観があったようで、円滑に意思疎通ができない場面が多々ありました。私はそれを職場の問題として、解決する為に必要なことや、総合的な労働量を考えていました。そうして一年以上続けたんですが、悪化するばかりでパワハラ同等の状態に陥ってしまいました。

 工場長に相談して解決の為に何度か話し合いの場を設けて頂いたのですが、同僚は「後から入ってきた奴が何をいう」という反応。工場長は放任主義な上に、喧嘩両成敗論を展開。強引な業務の押し付けや契約外のことまで任されていて、それを正常化しようとしただけなんですけどね。現場だけの解決は困難を極めました。わかっていたことなんですが、だからといって何もやらないと、最後には不利になってしまいます。

 このあたりで労働対価のバランスをみて退職を決意。現状までをまとめて「退職願い」を社長に提出。すると、問題の同僚から離れた作業場所に変えてくれるということで一旦は解決しました。それが撤回する条件ですよと念を押しました。でも結局、その約束を守ってくれなかったので、これ以上は期待できないと判断しました。撤回の意思がないことを表明するつもりで「退職届け」を出しました。

 

 

●それから三ヶ月の間にやったこと

 

 自営の方は、事業規模拡大の為に倉庫借りたことが大きなことかな。あと、創作活動は再開しただけじゃなくて、動画制作も始めました。『空のとびかた』プロジェクトの映画はiPhone6sで撮影編集するのでその練習をかねて、自分の作品のPVなんかをつくってみたのですが、結構面白いですね。簡単ですし、ツクール感覚でできちゃいます。

 

 

 あと所属していた当事者会でも、勉強会で行ったコントの映像を映画風にしたのですが、こちらはグループ内のみ公開なのでこちらで紹介することはできません。

 スマホのキャプチャー動画もPCに取り込めるようにしました。このへん調べてみるとわりとあっさりやり方がでてきて、昔の苦労はなんだったんだろうとげんなりすることもあったりなかったり。

 

 

 創作と言えば、なんといってもTaskeyとの出会い。これが一番の大きなポイントだったと思います。

 

 私は以前「創作家が集うシェアハウスをつくりたい」と思っていたことがありました。一度シェアハウスで生活してた影響だと思うんですけどね。自分もそうだったのですが、やりたいことになかなか打ち込みづらい環境があります。家庭の事情です。今もこの瞬間にも、「芽」が潰れているのです。これは国にとっても損害です。そういう人たちが思う存分、創作活動できる環境があったほうがいいと、これは今でも思っています。ある部屋では詩を書いていて、その隣の部屋では漫画を描いていて、その隣ではドラムを叩いていて、そんな生活空間です。

 

 自分は宝くじでも当てない限り無理なんですが、Taskeyからは自分の抱いていたそれに近いシンパシーを感じています。応援していますし、作品も預けられます。そういう意識もあって、アンバサダーという外部編集業にも参戦させて頂きました。数日前に自分の書いた記事第一号も掲載されたので是非お読み下さい。

 

30歳からの物書き道 「地球が吹っ飛んだ、と書けばいい」

30歳からの物書き道 「地球が吹っ飛んだ、と書けばいい」

 

 これからも末永くお付き合いしていきたいです。

 

 

 というわけでざっくりですが今年一年の流れをまとめました。

 来年は映画制作にチャレンジします。これからも宜しくお願い致します。