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人は、言葉からは逃れられない。

「支援に愛は不要」……という当事者からの『注文』

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ちょっと前に、『ツイート鑑定団になってはいけない』という怪しい記事を書いた。結構アクセスがあった。「ツイート鑑定団」という部分がわりと目を引いたようだが、「~になってはいけない」の部分に語呂の悪さを感じるので、タイトルはもうちょっと考えるべきだったと後になってから反省もした。

ざっくりとだけと粗筋を。
――ある日、いつものようにタイムラインを眺めていたら、発達障害に関するある呟きが目に留まった。そのツイートには温度の高い反応が集っていて、その主な火種は「愛のある支援」というフレーズであると思えたのだが、それにしても荒れ方が釣り合わないなと、そこが気になった。首を突っ込んでみると、発言主の言動を前々から問題視していた人が多数いることがわかった。彼らの何人かが「この人は前々からこんな問題発言をしていて、だからこの発言もこうだから、問題である」と丁寧に教えてくれた。しかし、一緒になって問題発言だと言っている人の中には、私のようにそれまでの経緯を知らない人もいるように見えた。で、「ツイート鑑定団にはなるな」という記事を書いた。


というわけで、今回の話はその前回の流れを汲む内容です。
続きを書くみたいなことを仄めかしておきながら日が経ってしまいました。いないと思うけど待っていたという人がいたら申し訳ないです。あと、念のため説明しておくと、この記事は発達障害界隈に渦巻いている言葉の扱い方」をテーマにしたもので、「伊藤氏のこれまでの言動に関する話」ではありません。そっちのつもりで開いた方はお店が違いますので、ゆっくりしていくか、別のお店へどうぞ、なのです。



○「支援に愛は不要」という『注文』
どういう流れで切り出そうか考えたが、一番言いたいことなので、最初に言っておくことにした。
愛は不要と主張した人たちが、一体なにを愛と定義した上でそう言ったのか、それはわからないが、それがあると、なにか困るのだろうか。

私なりに定義づけをさせてもらうと、この場合でいう「愛」って、色々な想いのことだろう。
例えば自分がホームレスの炊き出しに、支援側で参加したとしよう。実際に参加したことはないが、以前、放浪の歩き旅してる時に、ホームレスの人と行動を共にしたことがある。刑務所暮らしの事とか、ホームレス生活中の金の稼ぎ方とか、住民票を取得する方法とか、色んな話を聞かせてもらった。
ホームレスといっても全員が生きる事に絶望しているわけじゃない。順応しちゃってる人もいる。月に何十万も稼いでる人もいる。道の駅をねぐらにしているホームレスの人達に声をかけたこともある。もう人が聞き取れる言葉を発声できない人もいたし、とにかく明るい人もいた。

正直言って、たった一杯の豚汁で問題の解決に繋がるとは思えない。彼らのほとんどは明日もホームレスなんだろう。でも豚汁食ってる時だけは暖かくなれるし、腹も膨れるだろう。今までの事とか、明日からの事とか、一瞬だけでも忘れて、気を休める事ができるだろう。ボランティアの豚汁が叶えられえる効果はせいぜいそこまでだ。
それでも私は、万一にも器を落とさないように、一人でも多くの人が豚汁を飲めるように、一杯ずつ丁寧に配ると思う。50%くらいを意識して柔らかい程度の笑顔だって作るだろう。彼らの服装や表情、皮膚の色をあまりじろじろ見ないようにすると思う。とにかく豚汁を食えと、食って体力をつけろと、自分は豚汁配膳マシーンになりきろうとすると思う。

思いつくことをだだっと書いたがどうだろうね。自分の感情面の話だが、一般論として、こういう感情は、そのシチュエーションにおいては、愛を含むとして定められると思うぞ。これが不要と申すか。

愛ってどちらかと言えば、意識してなくても自然と膨らむ類の感情で、その癖に結構エネルギーの強い感情だから重宝されてると思うのだけど、それがいらないだなんて、それって「感情を殺せ」という注文になってしまわないか。

じゃなかったら、なにを愛とカテゴライズした上で、愛不要論をあの呟きへのリプライで主張したのだろうか。正直言わせてもらうけどさ、「愛さえあればみんな幸せよ! うっふふー! これで万事解決だわ! ラーララ~!」なんて思っちゃってるクルクルパーの理屈を、目に触れた「愛」という単語に強引に当てはめて、キラキラツイートしたかっただけでしょ。


主に支援をする側にいる人にこの場を借りて伝えさせて下さい。
私も当事者の一人ですが、愛が不要だなんてややこしいことは言いません。そもそも、不要なものだとカテゴライズできるものを、愛と呼ぼうとは思いません。私なんぞの言葉でよければ、ただただ、その支援を応援させて下さい。

もしこういう感情のことで支援側がなにか言われようものなら、もしその時に自分が支援を受けていた側なら、できる限り盾になりたいと私は思う。




さて、ここからが、記事の本編だ。

上の前書き部分でああは言ったけど、これでも誤解を招く表現に対する危機感は、私だって理解しているつもりだ。実際に気をつけなくちゃいけない部分である。
私が以前、所属していた発達障害の当事者会で、自分がファシリテーター役として勉強会を何度か開いたが、その時の開始の挨拶の文章の一部を紹介しよう。

> ――発達障害の存在は、一部の国では何十年も前から注目されていたようですが、日本ではまだ社会に顔を出したばかりです。「聞いたことはある程度」「全く知らない」という人が、まだまだ多いように感じます。ここ近年はネットを中心に「コミュ障だ、アスペだ」などという、乱暴な誤解や偏見も流行しています。そういう流れに屈しない為にも、理解を求める運動は、誰かがしなくちゃいけないと私は思います。ただそればかりではなく「自分にできることの追求」も忘れてはいけません。――


特に注意して選んだ言葉がここである。

・理解を求める運動
・「自分にできることの追求」
・忘れてはいけません。


発達障害界隈では「理解を求め~」「社会への理解を~」などというフレーズがあちこちに転がっているが、この「理解」という単語に重さを感じる人もいる。私個人的にもこの言葉は重いと感じる。
私には無二の友人がいるが、彼は障害の事なんか1mmも理解していない。それは友人同士のことだから言えるわけだが、実際、定型として私は一般就労で二十代を生きたけど、相手との親密度に障害の理解度はあまり関係はなかったと思う。だから特別な事情がなければ使わないようにしている。このメッセージでは、主旨が通じやすいという理由と、強調する形にはならないという理由で用いることにした。
また、「活動」と書かず「運動」と書いたのも、距離感を意識してのことだ。「活動」と書くと特別な能力や自分に自信のある人がやっているように思える密度を私は感じるのだが、「運動」ならやる意思だけでできる範囲としてイメージできると思ったからだ。
「自分にできるのことの追求」もえらい周りくどい言い方だが、これは「努力」という単語の使用を避けた為である。努力という単語は解釈の幅が広すぎて、こちらが意図しない伝わり方をするかもしれないと思ったのである。

「忘れてはいけません」も受け方次第ではひっかかる言い方だが、これは発達障害界隈では通用する。発達障害あるあるの苦労には「真面目にやっているのにふざけていると思われる」「頑張ってやったのにやる気がないと思われた」など、認めてもらえないどころか、そもそも不誠実な意識の人間だと思われる場面が定型発達者よりも多い。なのでそれを連想するような表現を避けるとなると、「ただ忘れていただけということにする」という表現が候補に挙がってくるのだ。

あと個人的に発達障害界隈によくあるワードで、自分が気をつけている言葉がこれ。
文脈次第では使う場合もあるけど、強調を意図した使い方はしないようにしている。

・生き難さ
・個性

このように、発達障害界隈はとにかく表現に神経質になっている。「うるさいくらい」と言っちゃってもいいぞ。良くも悪くもね。
いちばん分かりやすい例は「発達障害は治る」という表現だろう。言った本人がどういうつもりで「治る」と言ったかは全く重視されない。とにかく障害特徴を「治る」と称した者はほぼ間違いなく注意を受ける。
これは「治らないから障害なんだぞ」という、一般知識に基づく観点からの指摘だけではなく、「努力や根性でなんとかなると思っている無理解人間が余計につけあがるような感覚をこれ以上、社会に定着させたくない」という危機感と使命感が、声を大にさせるのだ。
「愛のある支援」というフレーズに、伊藤氏初見でありながら噛み付いた人だって、これと同様の理由があっての行動だと言わせてもらう。「あの呟きに対して主張する事ではなかった」というだけで、実際、発達障害が抱える困難の多くは、感情云々といった人情論はほとんど役に立たないのだ。




○目的と手段は妥当か
少し前の一文で「キラキラツイート」という表現をした。これは「キラキラネーム」という俗語を模したものである。
キラキラネームは「名前のおかしさ」という意味合いで使われる事が多い気がするけど、その実態は「その気持ちをそこで表現するのはおかしい」ということだ。「この娘には海のようにでっかく夢をもって育ってほしい!」という気持ちがあるとしよう。すごくいいね。でも「だから名前を〝海夢〟と書いて〝アクアドリーム〟にする!」と言ったらおかしいだろう。これは「こう育ってほしい」という目的の達成を、「命名部分で叶える」という手段をとったことがおかしいのだ。
このように分けて考えることができない場合、「気持ちはわかるけど、名前が日本人の一般感覚から離れている」と指摘したところで、「海のようにでっかく育ってほしいと思うのはおかしいのか!(怒」と反応してくる。ほぉら、手段がおかしいと言ったのに、内容の正当性の話を持ち出してきたぞ。話が通じないタイプにありがちなことで、ネットでいらん噛み付きを受けた時に試しに真面目に相手をすると、大体このような被害に遭う。

先の伊藤氏の炎上の件もこの構造が当てはまる。愛や想いなどの人情論では解決に繋がらない、といった主張を唱えるのは問題ないし今はまだそれが必要な時代だと思う。ただ、その主張を、ネット上に設置するという目的を達成する為の手段を、あの伊藤氏のあの呟きの内容に対するリプライという形でやったことがおかしいのだ。
妥当なやり方をいえば、たんにリツイートして、「愛のある支援」というフレーズから感じざるを得ない危機感を、さらっ呟けばそれで丁度よかっただろう。わざわざリプライで批難するような形で主張する必要は全くなかったし、そうしてしまったことで「支援側は愛を込めるな」という「注文・要求」になってしまった最悪である

愛は不要、愛だけじゃ解決できない、という意見を、反論として主張するということは、そういうことだ。




○その手段により生じる効果を意識する

たらい回しにするのもどうかと思うけど、以前こんな記事を、というか、ちょっとした昔話を書いた。

その問題に対して、その手段は効果的か?

売上げが足らない。それが問題であるなら、改善に手段をとるべきだ。
仏壇に向って正座して念仏を唱えることが効果的だとは思わない。
こういう環境で育ったから、私は人よりも効果を意識する感覚が大きいとは思う。

この社会はその仕組みを伝言ゲームに例えられる事がある。そのゲームでは、だいたい数十人の長い列を作って、一番端から隣の人にメッセージを伝えて、今度はその人が隣の人に同じメッセージを伝えて……というもので、最終的に反対側の端にいる人に届いたメッセージが、最初の発信されたメッセージと同じ内容であるかどうかを楽しむものだ。

国民をA~Zとアルファベットに分類しよう。
政府をA~Cあたりだとすれば、私のような一般小市民はX~Zあたりに位置していると言える。
D~Wはメディアや一部の著名人といったところか。

で、A~Wのどこかでメッセージに歪みが生じたとしよう。

例えば、P氏のネット上の発言のせいで「発達障害は頑張れば治る」という考え方が広まったとしよう。そして、あるところに「馬鹿X」がいて、そいつが「てめぇは甘えてるんだ」などといって、障害者で周囲の理解を必要としている「当事者Y」を、言葉で苦しめるとしよう。

当事者Yを馬鹿Xから救う方法として、どのような方法が考えられるだろうか。

少なくとも、ネット上でP氏を批難したり叩くことは、救出には繋がらない。単に「おかしなことを言ったP氏に一言言いたい」、ただそれだけが目的であるのならば、たしかにネット上の投稿サービスを利用するのはてっとり早いし確実だ。

馬鹿Xがその様子を見て考えを改める可能性はゼロではないが、それなら直接Xなる人物にコンタクトをとってその考え方はおかしいと伝えたほうが確実である。この場合、P氏に返信という形ではなく、オープンな形で発信し、「このような考え方はおかしい」と広く広めたほうが良い。当事者Yを救済することだけに焦点を当てるのであれば、P氏や馬鹿Xのことなど気にせず、直接、当事者Yに手を差し伸べるか、解決能力を付与する事が望ましい。

つまり、馬鹿X以降の問題は二次災害だということ。

P氏という爆心地がその後どうなろうと、二次災害の現場に影響を及ぼすことはできないのだ。
放火魔Pによる火災現場Xという例えでも、同じ事が言える。こっちのほうがわかりやすいと思う人がいるかもしれない。その人為火災で火傷を負った人Yを助けたいなら、直接Yを治療をすればいい。よくわからないのが、Yを助ける事を目的として、火Xを消す事を手段とし、実際に取る行動は、Pの捕獲という行動だ。Pを捕まえても火Xは消えないし、Yの火傷は治らない

例の伊藤氏の現場で起きた事も同じだ。誤解が広がるということを懸念して、その主張を伊藤氏の呟きに対するリプライとして発信した人が多かったのだが、その手段で得られる効果や範囲はとても限定されている。単に問題発言に対して直接一言言いたかっただけというなら、別にどうこう言うつもりはない。適した方法だ。

P氏を批難するのも叩くのもいい、馬鹿Xの存在を怒るのも自由だが、どれも当事者Yの直接的な救済には繋がらない。その事を念頭に置いた上で言葉を選ぶべきだ。

個人的には、発信者を叩くことではなく、そのエネルギーは馬鹿Xの排除の方に注いでほしい。私の人生経験上、Pがいてもいなくても、馬鹿Xのような奴は、Yを苦しめる。




○ 一番の問題は刷り込みが起きること
「愛のある支援」に噛み付いた人も、つまりは「刷り込み」に危機感をもったわけなんだけど、炎上状態だって、その現場があるというだけで別の刷り込みを起こしている事を忘れてはいないだろうか。
これはネット上での名言や格言、同調にも同じ事が言える。気軽に相談ができたり、人の考え方に触れることができるようになったシェア文化の弊害だ。SNSが主流になったここ数年でネットを始めた人には特に多いんじゃないかと思うんだけど、「ネット上で同調できる言葉をみたり、励まされる事で、一歩解決に近づいたと錯覚して、その日なにもしなかったこと」にもっと危機感を持つべきだ。


■事例1

「私の家はこうでああで、もう何もかもぐちゃぐちゃで(以下省略」
 ↓
「うんうんわかる、わたしの家もそうだった!(中略)お互い頑張りましょうね!(励まし」
 ↓
「はい! ありがとうございます! ・*・:≡( ε:)」
 ↓
ベストアンサー
※状況は何も変わっていない。


■事例2

「はぁ、生きるの辛い。私なにもできない」
 ↓
「人生とは~(中略)貴方だけの~そのままでいい~(中略)である~(同じ当事者の格言っぽい文章」
 ↓
「うん、ほんとそうだわ。やっぱりそうなんだわ」
 ↓
「おやすみなさい。ねます(¦3ꇤ[▓▓] 」
※状況は何も変わっていない。


よくある流れだが、一刻も早く市役所や法律相談を頼るべき状況に陥っていたのかもしれない。平均外の異常な不幸に陥っている人は、取得している情報も平均からもずれている事があり、その状況の深刻度を計れるだけの社会知識を持っていない場合もある。精神的に限界を超えて、ようやく専門家に相談した頃には、完全復興困難な状況に陥っていたりする。これを「当事者特有の、困難の連鎖の仕組み」と受け止めるか、「ただのマヌケの一生」とするか、それは好みによるが、どっちにせよ何もしなければ川に落ちた葉っぱと同じで、流されていくしかないのである。それは社会問題とは違うのである。

これが炎上でも、同様のことが生じている。今回、話題にしている伊藤氏の呟きをみて取るべき行動はなんだろうか
あれはその日思ったことをなんとなく呟いただけの類だと思えるので(恐らくリアルで腹のたつものを見たのではと予想)、通常の感覚なら読み流して終わりだと思うんだけど、炎上状態になっていたことで、「何かを言わなくちゃいけない雰囲気に駆られて条件反射的にリプライで呟いてしまった人」もいるはずだ。あぁ、判断を刷り込まれて、時間を無駄にしてしまったのだ。誰も反応してなかったら、貴方も読み流しただけだったろう。

そんなやるべきことをやらなかった人が何年か先に、自分の貧しい境遇を「社会問題」として訴えているのかもしれないと思うとぞっとするね。それが単発的なものならまだいいが、その事象Aに対してとる行動として、その叩きがパターンとして感覚にインプットされてしまうと非常にまずい。

『ツイート鑑定団になってはいけない』の最後の方でも書いたけど、情報は、回復や復興だけではなく、必ずどこかにダメージを残す。言うなればこの記事は、炎上によって生じた刷り込みの回復を役目として書いている。ではこの記事によって生じるダメージは誰が回復するのか。それは他の人に任せるよ。それでいいんだよ。

伊藤氏に噛み付いた人だって、あの呟きが起こしたダメージを回復しようとしたんだろう。ただ何度も言うようだけどその手段は効果が薄いという話。




○ なんにでもアクセスしたがる「シェア脳」の怖さ
大体の炎上に言えることだが、伊藤氏の現場で起きたことも、歪んだシェア脳が巻き起こしたものである。
SNSなどのシェアサービスのお陰で、私達の日常は大きく最適化された。チョイ前に体育会系の根性論が広く問題視されたことがあったけど、あれがいい具合にそのスタイルの定着を表してくれたと思う。

一昔前の努力論や体育会系の基準では「なんだかよくわからないけど、つべこべ言わずに、がむしゃらに頑張っている様子」がそれだけで努力として認識された。失敗に終わってもよくやったと誉められた。その場の監督一人がOKを出せば良しとされたし、それをステータスとして意識することができた。
対して、シェア社会が実現した「努力の最適化」は「目的達成の為に必要な情報を最小ターンで入手して、最小手で実行する」というものだった。これを確実に繰り返し安定して続けられることが今のステータスだし、これがわからないという者は時代遅れの目で見られてしまう。「最近の若者が頑張っているように見えない、甘えている」というおっさん達がわかっていないポイントはここである。

「最適化」の他にも、一番新しい情報である「最先端」を追求する意識と、現実的に実現可能な「最高値」を見極める意識も根付いていく。だいたいその3つが、実行できるか否かを識別する上での基準となる。

情報過多に慣れる過程で、その精度も高まっていく。自分が選んだ情報が最先端であり、最適であり、最高であると錯覚するようになり、その意識は自信となり、行動を大胆にする。ネットの情報と、自分との境界線も曖昧になってくる。

ここまでの内容を踏まえて、伊藤氏の呟きの現場で起きた事を改めて言い表すと、自分からみて『「最高値」の基準から外れた情報』を、『自分が知ってる最高値の内容に修正しようとした』ということなのである。

ここで、発達障害の境遇の話が混ざるのだ。当事者達は「できてない・わかっていない・きづかない」など、ありとあらゆる形でポンコツ扱いを受けながら生きている。その「でたらめ」に屈しない為に、人生をかけて勉強したり、なんとかなる為の方法を模索したりして、世の中の仕組みにガチでどんどん詳しくなっていく。そして、あるところで一般的な理解水準を超えた理解者になるのだけど、今度は立場が逆転し、「お前はおかしい」と言われる立場から、「貴方がおかしい」と注意できる立場に昇格する。

これが、どこにでもいる一般当事者が、あのなんでもない呟きに噛み付くようになってしまうまでのストーリーである。




まじですか。ここまで読みましたか。読了お疲れ様でした。わりと本気で、驚きと感謝の気持ちを表現せねばと思いながら、このあたりの文章を打っています。だいたいここまでで10,000文字でございます。一般的な原稿用紙が400文字。これが25枚以上で1万文字です。

ネットで情報を発信するとき、私はその行為の事をよく「情報の設置」と考えます。
「これが言いたいんだけど、その向きや場所は適しているだろうか」ということです。自分の発信をあえて「地雷」に見立てて、最適な仕掛け場所やタイミングを考えるということです。

今回の記事では、伊藤氏の呟き現場で起きた事を例に話を展開しましたが、おんなじような事はあちこちで起きていますよね。そして悲しいことに、みんな言ってる事は大事なことばかりなのに、それでも衝突し合ってるんですよね(笑) それは内容しか見えてなくて、手段といった、行為の部分でぶつかっているのです。

余裕がある人、つまり安定している人は、内容だけではなくその手段や行為まで見ます。「言論の自由」「表現の自由」はあっても、「行為の自由」はないからです。


こういう話、十年以上前にやってたオンラインゲームのコミュニティBBSで、学生たちとよく酒飲みながらやり取りをしていた覚えがあります。プレイマナーの話です。自分もテレホーダイ持代に「はじめまして」から初まるオンラインゲームでネットの世界に入った口ですが、その時にいろいろな事を教えてくれたネットのお師匠さんが言っていた言葉を今もよく思い出します。
まだE-mailとショートメールの違いもわからず、ネットの歩き方もよくわからなかった頃、チート行為のことで、BBS上で論争が起きたことがありました。自分は、「これは大変なことだ!」と思いつつも、どうすればいいかと悩んでいたら「ネットは楽しいところだけに参加すればいいのさ」と彼は教えてくれました。当時は、「え?これこのままでいいの?」と受け止め方の温度の違いに驚いたものですが、何年かしてその意味がよくわかりました。今までにネットでガチギレしたのは2度ありますが、基本的にイラっとした時はそうするようにしています。

私はこの出来事を通して思ったことを、自分のブログの記事に残したいと思ったからそうしました。
読んでくれた貴方も何か思うことがあれば発信してみては如何でしょうか。どこかから違った意見が聞こえてくるかもしれませんよ。その時は、自分が叶えたい範囲や効果、手段を考えて、一番最適だと思える方法で発信しましょうね。

そのほうが楽しいし、気持ちいいと思いますよ。