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HyogoKurumi.Scribble

私はこの社会が省略した事柄を言語化している人です。

鬱病を治したければ言葉を疑え!  読書感想文『うつを治したければ医者を疑え!』(著者:伊藤隼也)

【読書感想文】

以前このブログで書いたツイート鑑定団の記事の件など、いくつかの縁があり、伊藤隼也氏の著書『うつを治したければ医者を疑え!』を読んでみることにした。鬱病に関しては、自分もあの頃はそうだったんじゃないかと思える過去があるし、発達障害のことにも触れられている、いろんな意味で俺得な本だった。

本書は、不幸にも多剤大量処方の被害者となった人たちのエピソードを軸に、医療界の闇に切り込んでいく内容だ。自殺者数の増加傾向や処方割合など、各章、その指摘の根拠となるデータもきちんと掲載されている。まぁ、データーそのものは道標のようなものだから、数値のことはあまり気にしなくても読み進めることができる。

「最近、眠りにくくなった……、疲れがぜんぜんとれなくなった……」などの掴みどころのない症状が何日も続いたり、仕事や日常に支障がでたりと、もしそんな状況になってしまったら、誰もが病院に行こうと思うものだ。家庭の生活を支えているのが自分であるなら尚更だろう。

そんな冷静な自分だからこそ、自分の判断で市販薬を頼らず、医者の診察を頼ろうとする――それが、地獄への入り口となってしまったのだ。薬を飲んでも眠れない……ならば増やしましょう、他の薬も試しましょうと、どんどん薬が増えていく。 あるケースでは大量処方の末に、その人は死亡してしまった。死因はなんと『薬物中毒』だ。

薬も毒と変わりないということや、利益相反など医療界に渦巻く様々な疑惑は、自分は直接関与していなくとも、大体の人が社会の一面として知っていることだと思う。ただ、巷に流れてくる程度の情報の厚みでは、その範囲や深さなどのスケールが想像しにくい。

この本は、一般人では手の届かない、もう一歩二歩、踏み込んだ情報を求めている人にも丁度良い内容だと思う。悪しき現状と戦っている正義の医師たちの言葉も、本書の価値の一つである。

今回の記事では、読後の感想の中でも、特に大きなことを3つ話そうと思う。

うつを治したければ医者を疑え!

うつを治したければ医者を疑え!

※私は発達障害の一人で読字に少々の難があります。必要な部分は読み返し、一生懸命読んだ上での感想ですが、それでも読み落としや意図の誤認、あるかもしれません。その点はどうかご配慮を。



■我流で頑張っている人にもおすすめしたい

本書は大量処方の恐ろしさや医療界の闇が話のメインだが、鬱病や統合失調など、何らかの精神疾患症状の自覚がありながらも、我流などの方法で頑張っている人たちにもおすすめしたいと思った。家庭の事情や、診断や薬に抵抗があるなど、医療を頼っていないその境遇には、様々な経緯があるだろう。

自分の力でなんとかする――その覚悟は意思の支えになってくれるに違いない。でも時に、向かい風が吹くこともあるだろう。

「……自分のせいで人に迷惑がかかる」
「……本当に、薬を飲めば、よくなるのか」
「……自己診断はよくない」
「……正しい処方なら、大丈夫なのか」

私は三十代になってから発達障害の診断を受けたが、それまではずっと定型発達として生きてきた。中学生の時、障害相応の自覚を得てから、精神科へ連れていってほしいと親に頼んだことがあった。でも、連れて行ってはもらえなかった。そんなんで、十代~二十代は障害特徴と指せる困難だけではなく、二次障害とも向き合うこととなった。

学校は音がうるさくて教室にいるだけで体力が削られる。体温調整が狂ったのか、寒くて寒くて、服を5枚~7枚と重ね着していた時もあった。夜は布団に入ってから眠れるまでに2~3時間以上かかる。ちょっとしたことで怒ったり、泣いたりしてしまう――

自分は明らかにおかしい。でも誰も信じてくれないだろうから、普通を装って、そう振る舞うしかなかった。毎日が演技力を磨く日々だった。

得たものはある。けど、得られなかったものや、失ったものはあまりにも多い。 この本はそんな人たちに、エネルギーをチャージしてくれると私は思う。

「怖っ! 自分もこんな目に遭っていたかもしれない!」
「こんなことに巻き込まれたくない!」
「あの時、病院に行かなくてよかった!」

この本を読んで、存分にそう思えばいいい。「病院を頼らなかった自分偉い!」と、自分を褒めればいいのだ。

この本には、家族を失った不幸なエピソードもある。でも、一緒になって悲観する必要はどこにもない。何よりも、いま生きている人が、元気を得ることだ。被害に遭われた人たちやその関係者だって、きっとそれを望んでいると、私は言いたい。



■子供に向精神薬は危険。改めて認識。

脳の中枢神経に作用する薬を、成長過程の子供に使用したら、その後なにが起きたとしても不思議ではない。そもそも全ての知識は、誰かの思い込みである。「治ります」「良くなります」という表現だって、本当はファンタジー(思い込み)なのだ。

医者じゃなくてもわかりそうなことだが、この程度の洞察力も備えていない人があちこちにいる。頭がよくなる薬とか、人間関係がうまくなる薬とか、そういう薬がどこかにあるとでも思っているんじゃないだろうか。そんなドラゴンボールみたいな薬は存在しない。

自分が親で、子供に発達障害特徴があり、それがあまりに大きな問題で、一般社会の中では日常や平穏の維持が困難だとしよう。行政や外部の支援や周囲の理解も期待できない。私なら、それでも飲ませない。じゃあどうするのか。恐らく私の家庭は、その生活を捨てて田舎に移り住む。そこで農作や畑を習得して、自然と共に過ごすだろう。子供が成長して自制心が養われたら、また都会に移り住むことを考えるかもしれない。

発達障害と指せるその特徴のままでも、生きられる環境を整えること。第一にそれを目指すべきだ。

これは思い付きではなく、シミュレーションである。実際に私はその選択をとると誓って言える。私は物書きだから、ストーリーを考える想像力が人よりも高いのだ。あと、私はそれなりにメンタルヘルスの世界と向き合ってきたから、ある程度、自分の心の中が覗けるし、命令や言い聞かせることだって、できるのだ。

対して……こう言っちゃなんだが平均的な人生を送ってきた人に、いま言ったようなシミュレーションや、日常のすべてを別のスタイルに移行する選択ができるかと言われたら、それはとても難易度の高いことだということはわかっている。

子供が発達障害で悩む一般的な親の年齢……二十代、三十代か。まだ遊びたい年齢だろう。ブランド品やアクセサリー、ファッションにだって、興味津々だろう。そういう欲を断ち切れだなんて、一度死んで生まれ変われと言ってるようなもので、そんな鬼みたいな話をしようとは思わない。

全ては国の問題だ。生きやすい環境を国民に提供できない、国が悪い。いや国さえも悪くないのかもしれないね。想像できないことは、罪ではないからな。

もし私がなんかの大臣だったら、希望する家庭は支援付きで田舎に移り住むことができるような施策を立てるんだけど。誰かやってくれないだろうか。発達障害は都会よりも自然の中のほうが育てやすいと私は思うぜ。田舎も人口が増えればいろいろ充実するだろ。

あと、この記事を機に向精神薬の名称を調べたんだけど、なんだこれは、横文字だらけではないか。一目見て効果が想像しにくい名称ってどうなんだろう。

例えば「リタリン」は鬱病注意欠陥多動性障害などに効果があるとされていたが、依存度や副作用の問題があり今では厳しく規制されている。この薬だって「中枢神経刺激興奮覚醒依存取扱注意指定強力劇薬」とかだったら、もっと慎重になったと思うぜ。



■薬=使ってはいけない、という認識も大きな間違い

この書籍が伝えているのは大量処方などの誤った治療がもたらす恐ろしい現実と、その背景にある利益相反などの医療界隈の闇。そして医師と患者に求められる事とはなにかを問う内容であり、決して、薬治療そのものを否定する話ではない。

私は薬を飲まずにここまできたとはいえ、危ない時期はあった。我流でいく事にもリスクがあることを身をもって知っている。

今から7~8年前。一人暮らしをしていた時だ。その頃、発達障害や二次障害のことについてはまだ未診断だった。自分の人生の困難は親の環境にも問題があると考えていた。当時の親は熱心な宗教信者だった。中学のころのいじめ体験を通して普通とはなにか、を掴めたつもりだったけど、それと家の状況は無関係。学校での日常は落ち着いたが、家に帰ればぐちゃぐちゃの家庭が待っている。逆に、知恵がついた分、家の悲惨さがよりリアルにわかるようになったことで、そっちの負担は大きくなっていた。
一人暮らしをすることでその環境からの脱出が叶ったのだから、これでもう自分は大丈夫だと思っていた。

でも私はその頃もまだ仕事や人間関係の失敗が絶えなかった。職場で自分が喋ると会話が止まる。仕事は成果が出ない。自分だけが注意される。
周囲から迷惑がられていることがわかる。

中学の頃は自分の言動が見えず、嫌われていることにも気づけなかった。その点に関しての理解はできているから、目に見えない空気は感じ取れる。でも肝心の自分の言動を空気に合わせてコントロールする事は、まだできていなかった。ここまでわかっているのに、事態を好転できないことが辛かった。

自分の中で少しずつなにかが壊れていくのを感じていた。それでもとにかく、人と関わることを止めてはいけないと、仕事は休まないように頑張った。でもその先で大きな失敗をしてしまった。しかも今度は恋愛感情を抱いた異性が相手のことだったから、とても大きなショックを受けてしまった。

それから、私の頭の中は本格的に狂ってしまった。この頃の症状をざっと書く。
天気が崩れたり地震が起きただけで自分のせいだと強く思う。ニュースで人が死ぬと自分が死ねばよかったと強く思う。他県に住んでいる友人が自分の家に監視カメラを仕掛けていると強く思う。普通の人になるためには普通の人のDNAを取り込まむしかないのではという妄想に取りつかれる。友人と映画館に行っても人の多さが怖くてその場にいられなくなり、途中で出る――

書けばきりがない。どうしても脳がそう思って感じることをやめてくれないのだ。頭の中で流れ出る変な汁が私を殺そうとした。今の自分はおかしいことは認識できていた。でもその背後で少しずつ育っていくおかしい自分の存在を認識していた。

私がぎりぎりのところで踏ん張れたのは、いじめ問題を解決したという成功エピソードと、友人たちの存在が支えになってくれたからだ。あと、それまでの経験から、こういう時の回復手段を心得ていたこともある。

私は冷静さを取り戻してから、病院へ行った。これ以上、自分の力だけで頑張るのはよくないと思った。そして、発達障害の初診察を受けることになったのだ。

だから思う。もし解決エピソードや友人の存在がなかったら、私はきっと大きな行動をとっていただろう。それこそ、子供を襲って食べていたかもしれないし、どこかの駅で無差別に人を攻撃したかもしれない。

そういう支えとなるものが何もない人は、本当に辛いと思う。特に鬱病や統合失調の類はたちが悪い。人生そのものが病巣になってしまうからだ。薬で脳の状態を安定させられたとしても、同時に友達や恋人、家庭が手に入るわけではない。

現実の認識力を高めなければ、いつまでも心の病からは逃れらない。



鬱病を治したければ言葉を疑え!

抗うつ剤の使用について、ある教授の見解が書かれていた。私はこれを読んで仰天した。

「英国は軽症うつ病の治療方針として、確かに、抗うつ薬よりも認知行動療法を推奨しています。しかし、ここで大事な点は、認知行動療法の抗うつ効果が抗うつ薬よりも優位に勝るという明確なエビデンスはなく、両者の効果は同程度だということです」

認知行動療法の期待効果は「自らの試行による現実の発見や再取得、それが意思の支えになること」だと断言する。まったく調べていないが大よそはそんなところだろう。違うぞという指摘がきても修正する気は全くない。対して、抗うつ薬はどれだけ飲んでも、どこかで回復のプラスになる働きはあるのかもしれないが、現実の発見はなにも得られない。
一体どういう理屈でこの2種を並べて比較した発言をするに至ったのだろうか。私から見ると「テレビを叩いたら映ったので故障は修理できました」とか「ポケットの中でクッキーを叩くことで二つに増えました」とか、それくらいわけのわからない話である。

私は所詮、カットされた一部のシーンを知っただけなので、これ以上の言及は難しいのだが、本書の中ではこのように、医師側の認識力や解説力に、疑問を感じざるを得ないエピソードを随所から想像することができる。例えば「AとBとC」という3種の効果が得られる薬があるとしよう。このうち「AとC」しかわかっていない医師や、頭では3種の効果がわかっているけど、相手がわかるよう、拡大解釈しないように適切に伝えられる言葉の創作力を持っていない、そんな医師の存在だ。

この本が訴えている真の問題は、そこにあると私は考える。

私は中学生の頃のいじめの体験を通して、嫌われていることに気が付けた。いじめられている日常は現実ではなく、嫌われて誰からも話しかけれないことこそが、私のリアル(現実)だったのだ。それがわかってから状況を好転させることができた。問題点がわかったからである。 もし「自分はいじめられている」という、ファンタジーを信じ続けたままだったら、私は自分のいじめ問題を解決することはできなかっただろう。それは当たり前である。存在しない事柄を、解決することはできないのだ。

私に「いじめられている日々」という嘘を、現実だと思わせたのは、「いじめ」という言葉だった。

話しを戻そう。
本書でも触れられているが、医療界隈には「薬信仰」というワードがある。端的にいえば、薬でなんでも治るという誤った現実感だ。この本は端から端までその問題について触れられているわけだが、この社会に渦巻くもう一つの信仰の存在をも明かしていると、私には読み取れた。

言うなればそれは、「言葉信仰」というものである。

信仰といえば宗教、宗教といえば神……と、そこまでは連想できるだろうか。私は無宗教である。神の存在も信じていない。なぜなら、神は言葉の中にしか存在できないからだ。私が信じるのは現実だけである。そして、言葉は現実を表す上で代替に使えるというだけで、現実そのものではない。そのことを、現代社会の人はもっと学ぶべきである。

この本を読めば、人々が言葉というファンタジーの思うがままにコントロールされて生きている、それが社会のシステムになってしまっていることが、よくわかる。

……あぁ、なるほど。あとがきを読んでわかったが、写真家である著者の伊藤隼也氏は父を亡くした理由に、通院していた精神科の診察や処方薬に問題があったと考えているようだ。その不幸を機に医療ジャーナリストとしての活動を始め、本書の執筆に至ったという経緯らしい。

……ふむ。カメラでは死神を捉えられない。写真に死神は映らないから。でも、言葉でなら捉えることができる……ということか。

私がそんな風に思うのは、自分が物書きだからなのかもしれない。だとすれば今の言葉はだいたいの人には共感できない一言だったかもしれない。

ただ一つ言えることは、この本はたしかに、言葉に潜む死神を、ありのままの姿で捉えているということだ。
なぜなら、この本の追跡している事が、今を生きる人々の「言葉」
に他ならないからだ。


※この本と、制作に携わった全ての人に敬意を表し、本記事タイトルに書籍タイトルの一部をお借りしました。どうかご笑納下さい。



うつを治したければ医者を疑え!

うつを治したければ医者を疑え!

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