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HyogoKurumi.Scribble

私はこの社会が省略した事柄を言語化している人です。

別に発達障害者になりたかったわけじゃない『診察を求める⇒社会の体質が背景に』

【発達障害】
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他の記事でも書いていることだけど、私が発達障害の診断を受けたのは31歳の時、でも中学生のいじめ体験を通して、その頃から障害相応の自覚を持ちながら生きていた。
だから24歳の時に発達障害という知識を知った時も別に、驚きは特になかった。

障害受容の事で悩む人も多いが、そんなんだから私の場合は診断を受けた時も全く抵抗はなかった。むしろ受けに行ったという感じだ。


発達障害の事を知った時の主な感想は「自分がおかしいと思っていることはやっぱりおかしなことだった」で、「自分は人間だった」という手がかりをやっとみつけられた気がして、大きな安堵感を得たのを覚えている。これは大袈裟ではなく、わりと本気で「自分は宇宙人か何かでは」と考えていた。

その時も別にすぐ診察に行ったわけではない。家が自己破産するか私がウン千万の借金を引継ぐかという瀬戸際で、診察どころじゃなかったという事情もあるんだけど、それまで自分の力でやってきたという支えが診察への優先度を下げたのだ。

でも、現実はもっと複雑だった。結局、その後も人間関係や仕事で失敗続き。それが自分の能力不足から生じたことではなく、全くの規格外の社会の中で、大部分を手探りでやっているという認識が意識の前提にあるので、純粋な意味での責任感も芽生えにくかった。人生に見切りをつける意識も日に日に膨らんでいった。

今思っても、障害特徴と思しき要因からなる不利な点を、相談できない主張できない、という制限が、最も大きな負担だった。


今の時代は「私の発達障害特徴では、できません」で、まぁ勝てる。これだけ認知度が広まった時代、それに合わせられなきゃそいつがおかしい。

でも私が二十代だった無理解時代は、そもそも発達障害という言葉すら浸透していない時代。だから先のワードは使えない。
じゃあ発達障害という用語無しに、できない理由を説明したらどうなるか。いや肝心なのはどう説明しても「知ってて当り前、わかって当り前、できて当たり前」という、常識観までは覆らないということ。「いいわけするな」とか「今まで何してきたの」とか思われる。「でも私は障害かもしれないんです」なんて〝開き直った言葉〟を言ったら大激怒は必至だろう。そこで理解が得られるなんてアンビリバボーだ。

気づけない、それ自体は仕方ないと思う。どうやら大多数は、障害云々の可能性に気づけるだけの問いが作られる前に、常識観によりその式は潰れてしまうらしい。でもその後、相手の人格否定にまで感想が及ぶのは仕方なくない。

今も大して変わってないと思うが、少なくとも当時の教育レベルでは、発達障害自閉症などの概念を理解できるだけの授業はできなかった。ならば独力だけが頼りで、その可能性を秘めている行いは、自分の限界を理解する努力だと私は思う。
自身の限界を知ることで、人間の限界を理解する。そうして得られる〝理〟はそのまま、発達障害にも通じるのだ。私はそう断言する。

私は結構、詳しい人、わかってる人として思われる事が多いけど、発達障害関連の書籍なんてのび太ジャイアン症候群とその他、数冊くらいしか読んでいないよ。ネットでもほとんど調べない。一般就労や当事者との交流、あと何よりも自分の体験から導き出される意識から話しているだけ。だから私は、人に対して詳しくない人を見た時、努力とかしたことないんだろうなって平気で思う


できない人の話なんて誰も聞いちゃくれないんだよね。アンビリバボーなんて期待するもんじゃないし。でも、なんとかして「できない、わからない、知らない」ということで、相手に合わせてもらわなきゃ、自分も相手も困ってしまう。しかも「自分だけの原因」になる。そんなんでは生きていけない。
例え正しい話ができたとしてもその場は何も変わらない。だから『発達障害』という診断が、どうしても必要になるのだ。

これは一般的な職場の仕事の回り方に言えることで、多くの事柄において、その仕組みなんてどうでもよく、ただ合わせられる基準となる情報があればいい。

発達障害=どうやらいろいろな事ができない、わからない、知らない」だけで十分なのだ。

目の前の当事者の○○さんの生態なんて考えない。知ったところで持て余すだけ。この社会の多くの仕事は、個を基準には考えない。それはテレビの有名人やお年寄りの介護など、そういう相手に対してだけ用いる特別な感覚だから。人も社会も、個から物事を考える回路が未発達なのである。未発達という認識すらない。

これが、私が一般就労の中で得た社会観であり、大多数に通じる定型人の思考回路である。

そうして当事者たちは、多くの現場で使えるピースを求めるようになる。その形は、個の情報等ではなく、それ以上、考える必要がなくて済む〝標識・シンボル〟であり、それが診断や手帳なのだ。

発達障害の診断を求める人が増えている背景には、こういう社会の体質の話抜きには、絶対に語れないと私は思う。


この発達障害界隈にいる人たちの多くは、各々の人生の中で、こういった社会の体質を何らかの形で理解する。
診断云々だけではなく、会社を辞めていく理由にも通じる話だ。

「これは社会全体の体質だから」
「誰も何も、悪くないから」

何も言わず抗おうともせずに、静かに会社を去っていった人がいるなら、その人もこういう気持ちだったのかもしれないね。

「診断受けたのはてめえの勝手」とでも言いたげな、粗い考え方の意見を今も見かけるが、それは実情に合ってないと言わざるを得ない。

当事者たちが診断を求める理由は、自分が社会の中で生きていく為であり、みんなの生活を壊さない為でもあるからだ。