HyogoKurumi.Scribble

人は、言葉からは逃れられない。

そこは「定型と非定型」ではなく「定型生活者」と言いたかったのでは?

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 自閉症界隈では〝普通の人〟を指して「定型」という言葉が使われる事があります。「定型発達者」の略で、非定型ではない人の事です。
 wikiの解説をみても、相応に定着している用語であることがわかるかと思います。

定型発達 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%9E%8B%E7%99%BA%E9%81%94

定型発達(ていけいはったつ、英:Neurotypical, NT)は、自閉コミュニティにおいて造り出された用語で、自閉症スペクトラムに当てはまらない人々を指し示す[1]。 いわゆる健常者の発達のこと。 定型発達の人々は、(行動学上)大多数の人が「普通」とみなす神経学上の発達をとげており、特に言語情報やソーシャル・キュー(社会的合図)を処理できる能力をもつ[2]。 後にこの概念は、定型発達における個々人の差異と同じ差異として非定型発達を認識すべきだとする神経多様性運動(en:neurodiversity movement) と科学コミュニティにより受け入れられた[3][4][5]。 英国では、英国自閉症協会(National Autistic Society、NAS) はジャーナリストへこの用語を使用するよう推奨している[6]。 日本では、略して「定型」と呼ぶことがある。


 私もこの言葉も使う事があります。例えば自閉症特徴を持つ人と上手くコミュニケーションできない人たち〟〝できる人たち〟を区別して、なにかを言いたい時などですね。

 ただ、この言葉は何かと不便で、いくつかの課題を意識しながら言葉を作らなければいけません。課題がクリアできていないものは、「もやっ」とした印象を相手に与えてしまいます。


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●全ての定型発達を指してしまう
 定型発達者の平均的な意識が、生き辛い社会の元凶としてやり玉にあげられる事があります。でも、すべての定型発達者が無理解というわけではありません。「定型と非定型」と言う時は、この言葉足らずを埋める為に同様の補足文がついていることが多いです。

●対立感情をより定着させてしまう
 どれだけ言い方に注意しても〝定型と非定型〟と書けば区別した事になりますから、相互理解を願う観点からみて、濁りを感じざるを得ません。

●定型側とシェアし難い
 「定型と非定型」と、言葉の上ではっきり区別されていますから、相互理解を視野に入れた発信だったとしても、相手が受ける印象として、「非定型側だから持てる考え方」というフィルターが先にできてしまいます。


 上記は一例ですが、定型と非定型という時は大体の人が主に意識する事だと思います。このような懸念があるので、このワードを使わないようにしているという人も、少なくないと私は思います。

 定型と非定型というワード自体は悪くないと思います。その表現が適切な場合もあるでしょう。しかし、ネット上の書き込みでよく見かけるものは、生き辛さを主旨にしたものが多いのです。どういう内容であれ、定型側だけを悪くみているような、思考停止してしまっている印象を少なからず感じてしまいます。

 何より、相手が定型、つまり健常者であるという前提で話が作られているので、説得力を脆くしています。「職場で障害特徴の事で酷い事を言われた」という話を聞いた時、そもそもその相手だって未診断の無自覚発達障害者だったんじゃないの? そういう可能性は考えないの?」という、モヤモヤとした感想が残ることがあると思います。
 発達障害アスペルガーなどはその特徴として、思ったことをそのまま口に出してしまう、人を不愉快にさせてしまう失言をしてしまう事があります。ですから、職場で酷い事を言われたという相手の言動や状況から「じゃあその人も発達障害なのでは?」という可能性が浮上するのです。特にtwitterの書き込みは文字数制限のあるせいか、このような印象を覚えるものが目につきますね。

 当事者界隈では、こういったモヤモヤを感じても追及しないようにしている空気が漂っていると、少なくとも私はそう思っています。『当事者が定型~非定型と語る時、その区別は適正である』という暗黙の前提です。
 『いじめと感じたらそれはいじめだ』と同程度の思考停止。その上でやっと成り立っている脆いコミュニティの存在。実際、そういう理由で当事者グループを抜けたという人もいるのではないでしょうか。そういった、お互いを認め合うばかりの空気が、当事者同士で傷を舐めあっている雰囲気を障害者界隈に纏わせているわけですが……それはさておき。

 根本の感情部分は別に間違ってないわけです。嫌な思いをした事や、生き辛さを感じているのは本当の事ですし、その日常の中で、普通の人という〝定型発達者〟、普通の人が主導で築いた〝定型社会〟の存在を、自分とは違うという意味で区別してしまう事も、同じ境遇にいれば自然と根付く感覚だと私は思います。

 それでも『定型と非定型』というワードから濁りを感じてしまいう理由は、ほとんどの場合、その表現が不適当だからではないでしょうか。もっと的を絞った、別の言い方が良いはずだと感じているのではないですか。
 私は他の当事者の方のお話やネットの書き込みをみて、そう思えることがあるのです。

 定型と非定型と書きながらも、特に気にしているのは、自閉症特有の生き辛さを相手が経験していないこと、つまりそれは『定型生活者』と呼べるのではないでしょうか。


■無理解は、同等の生き辛さを経験してない為。つまり『定型生活者』。

 他の当事者の話などを統合すると、自然とこのワードが作れてしまうんです。

 「定型と非定型」と、そう区別して話をする時は、この社会の意識や感覚が、定型を基準に築かれているが故の生き辛さを語る時が多いかと思います。
 「メモを取るなと言われた」「お前はただの努力不足だと言われた」など、そういった自分の体験だけではなく、ネットの書き込みなどで見聞きした他人のエピソードも背景に込めると思います。『鬱は甘え』はその代表例でしょう。これらの合理性を欠いた困った要求をする人たちは、その文脈から察して「精神疾患などの診断を受けていないと思われる人」、つまり定型発達者と断定できる場合がほとんとです。こういう現実も、区別の必要性を生んでいる要因の一つです。

 でも、普通に協力し合って仕事ができた相手の中には、診断などを受けていない、その必要もなさそうな人、つまり「定型発達者」の方もいるわけですし、逆に、自閉症関係の診断を受けている非定型側にだって、困った人はいるのです。診断を受けていない定型発達だからといって、その人が自閉症スペクトラムに該当しないとは言い切れません。これは前の項でも言いましたね。その人だって、発達障害特徴を持っているのかもしれないじゃないですか。

 このように「定型と非定型」という区別では、処理しきれない矛盾を生むばかりです。「定型」というワードでは範囲が広すぎて使い物になりません。それでもこの言い方がここまで定着しているのは、これも前に言った『当事者が定型~非定型と語る時、その区別は適正である』という前提が支えているからです。だから表現し切れていない事をわかっていながら多用している、そんな現状があるのです。

 ここからが本題です。
 この言葉足らずが説得力の脆さとなり、しばしば非定型側の主張は叩かれる事があります。二極化しているような白黒で分けているような、思考停止してしまっている印象を強めるのです。
 そうして、言葉で追い詰められた非定型側が最後の手段で用いる事が、自分がどれだけの苦労をしてきたかという、苦労の度合いなのです。

 『自分の言ってる事がわからないのは、この生き辛さが想像できないからだ。その理由は、この生き辛さを経験していないからだ』という理屈です。そう思う事で、相手を悪人に仕立て上げないという目的もあります。『経験していないのだからわからなくても当然。相手に悪気はないのだ』という精神的な処理です。

 このように、相手が定型であるか非定型であるか否かは、実はあまり関係ないのです。結局は、理解し合えればそれでよく、その決め手となるのが自分の苦労を理解できるだけの経験を相手もしているか否かなのです。

 初めからこの基準の主に言葉を作らないのは、生き辛さや苦労を主張すると、「苦労は誰にでもあるでしょう」と、その時点で論破されてしまうからです。




 私は別に、この言葉を広めようと提唱する為にこの話をしているのではありません。この言葉をこうして記事にしようと思った理由は、この言葉が「定型と非定型」というワードの延長にありながらも、定型と非定型でシェアできる部分があるから、言ってみようと思ったのです。

 人の苦労がわからない人に対する苛立ちや怒りは、定型非定型という区別の壁がなく、そういう困った人をなんとかしたいという気持ちは同じだと思うからです。

鬱病を患った精神障害者に「甘えている」「医療の悪用」など陰口や悪口を言う同僚に、うんざり。
・障害者スタッフに対する上司の嫌悪が露骨で、職場の空気が悪い。
・未診断無自覚の発達障害者らしき人が入社したが、教育役が努力でなんでも叶うと思っている人で、暴言罵声がオフィスに響いている。

 これらの的となった非定型側はネットなどで生き辛さを語る時、「定型が」「定型社会が」とか言ってるんです。
 違いますよね。これは『定型の無理解さ、定型社会の生き辛さ』というより、〝人それぞれ固有の限界が想像できない人たち〟であり、それがわからない理由はそもそも自分の限界に挑んだ経験がないから〟であり、その理由は〝自分にできる事ばかりを基準に生きてこれたから〟で、それ故に〝できない事と向き合う意識に詳しくないから〟と推理できます。

 これを一言でまとめると〝定型人生を送ってきた人〟というわけです。

 今まで「定型と非定型」と分けて言葉を発信した事がある人は、今回の記事でお伝えした「定型生活」というニュアンスで言ったのだと、そう言えた時があるのではないでしょうか。


 この言葉だって万能ではありません。非定型な生活だった人の皆は、非定型の気持ちがわかるのかと言われればそうではないと思いますし、苦労が平均以下だったとしても、人の気持ちがわからないのかと言われれば、それもまた違うと思います。

 どんな言葉も使い方次第です。私はより適切な表現を考えていきたいと思います。それが相互理解のカギになると思うからです。


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