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HyogoKurumi.Scribble

私はこの社会が省略した事柄を言語化している人です。

相模原の事件で思ったこと―『なぜ弱者を狙うのか』

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 神奈川県相模原で、障害者施設の元職員が建物に侵入し、主な入居者である知的障害者たちを、次々と殺傷した事件が起きた。これを書いている時点でも既に19人の死亡が確定。死亡者数だけで見ても戦後最悪と言われている。地下鉄サリン事件でさえ13人だ。他に負傷者が26名ほどいるらしく、死者数はまだ増える可能性があるだろう。⇒相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

 タイトルの「なぜ弱者を殺すのか」については、襲撃事件の情報を追っている中で、秋葉原通り魔事件との比較をみてそう思った。その話は刃物だけで殺した人数についてなんだけど、私が思ったのは、今回も秋葉原の時も、攻撃対象とされたのは人畜無害な弱者たち、ということだ。


■なぜ悪者を狙わない

 どちらも攻撃対象となる条件が『その場所にいたこと』という点でみると、この2つの事件は一部だけとしても「無差別殺傷」という種類に分けられると指摘できる。

 もしその場に小~中学生くらいの子供がいたら、他の対象と同じように殺めていたのかを聞いてみたいのだが、それはさておき、今回の相模原の事件のことも秋葉原通り魔事件のことも含め、無差別殺傷事件全般について思うのは、なぜ『人畜無害な弱者を狙うのか』という事についてだ。

 素朴な疑問として、どうせ捕まって死刑になる覚悟をもってやるなら、『車を使って、暴走族を後ろから轢き殺しまくる』とか、『ブラック企業のビルを放火する、ついでに社長を襲撃する』とか、世の中で悪者とされている存在達をターゲットにしようとは思わないのだろうか、という話だ。

 もちろんこれは「悪を殺すならOK」という意図での話ではない。誰かを殺して死刑になろうと考えた時、人畜無害な存在にするか、社会的に悪とされている人を対象とするか、どちらにするかを考えた上で、後者を選ぼうと思うのはごく自然なことだと私は思うのだが、違うだろうか? 無害な存在を殺したところで、世間にはショックや悲しみを与えることができるだろうが、それ以上の効果が期待できない。しかし悪者とされている存在を殺せば、少なくとも何人かは喜びか悲しみと共に、救われるだろう。自暴自棄になると、そういう選択肢が浮かばなくなるのだろうか。


■「人を殺してはいけない」という"覚え方"が、思考停止を招く

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 殺害が究極的な最終手段として君臨し続けているのは、「人を殺してはいけない」という考え方が根付いているからではないだろうか。というのも、私は言葉などで攻撃された時、相手を殺すことをわりと平気で選択肢の中に取り入れる。でも、解決手段を考えていけば、殺しがベストアンサーにならないことがわかるから、これまで殺害を実行してこなかったのだ。

 人を殺すと面倒な事になる。死体を見つからないように隠すとしても大仕事となるし、見つからないことをずっと考え続ける事となる。もしばれたら、その時の生活は維持できなくなるだろうし、刑務所に入れられた上、死刑になるかもしれない。死刑にはならず、刑期を終えて社会に戻れたとしても、とても生き辛い生活が待っているだろう。

 我が家にまだ子供はいないが、もし子を授かってもそのような形で教え、社会勉強をさせると思う。人を殺したいと思うほどの怒りや恨み、その衝動から逃れる事はできないのだ。しかも自分が辛い時に、その魔の手は忍び寄る。もし人を殺したら社会は貴方を許さない。そういう意識に負けないように、賢くならなければならない。


■病んでいる人ほど攻撃的な思考に慣れていない

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 特にどういう症状か、というのは指さないけど、イメージとしては優しいメンヘラとか、病んでいる状態の人は、攻撃的な思考をよくないものと思い込みすぎて、その意識的な異物を取り払おうと、もがいてるように見える事がある。殺したいとか死ねばいいとか、そういう思考はそのままに、それ以上の解決策を生み出せる知恵や知識を習得することに体力を注いでほしいのだが、それができていない。やろうとしてできない、のではなく、そういう発想があること自体にありえなさを感じている節がある。無差別殺傷事件の容疑者の中には、自身の攻撃行動を書籍などで丁寧に解説しているが、どことなく幼くてピュアな印象がある。それだけその感情を大きくて大事なものだと思っているからだ。
 病んでいる人はそういう思考を不定期にだが払拭できる時があって、その体験を積み重ねた先に「回復・克服」があると思っているようなのだが、ほとんどは一生、その攻撃衝動に悩まされ続ける事になるだろう。悩んでいるばかりでは、その衝動に頼らなくて済むだけの知識が得られないからだ。

 今回の相模原の事件や、秋葉原通り魔事件も、報道された情報をみただけでの私の推測だが、どちらも感情論型の事件で、犯人も殺害という選択を究極的な最終手段だと思い込んでいたのではないだろうか。このような事件は、悪い事を思考から排除させる偏った教育や境遇がその根底にあると私は思う。そういった感覚と普段から向き合い、それ以上の解決策が出せる知力を習得する事が要と言えないだろうか。

 この社会で生きていれば、誰もが大なり小なり、怒りや恨み、悩みなど、心因的な負担を抱えることになる。大体のことに解決法を提示する事はできるのだが、その多くは途方もない時間を要したり、実行するには知識が必要で、一人の力だけで達成するのは難しい。というか大体の事は一人の力だけでは達成できないようになっている。それが社会だ。そして大体の人は、抱えている悩みだけでいえば小さなものばかりなのだが、その自分の悩みを社会の規格に変換する事ができない為に、大きくて複雑な悩みだと思い込んでいる。

 日常の事を相談し合う日常を、普段から維持しておくことが望ましい。アドバイザーも心強いが、できれば同じ悩みを抱えた相互相談相手がいいだろう。リアルに相談相手がいないのであれば、ネットを頼ればいい。2ちゃんねる乱暴な叩きが多いのでおすすめしない。ツイッターなどで悩みをつぶやくだけでも、親身な反応が来ることもある。Facebookは基本は本名利用なのでわりと真面目な話が聞けることもある。私でもいいし、オープンに相談受付をしている物好きな人もいる。(そういう人の中には自分の状況を改善できていない人も多いので注意が必要)
 限界が来たら相談ではなく、限界ラインに到達しない事が重要だ。加えて言うなら、限界ラインは低ければ低いほどいい。問題は小さい方が解決しやすいのだ。でも馬鹿は問題が膨らみ続けている事を自覚できず、山のように大きくなってもその原因が放置であることを理解できない。

 今の日本には、今回の相模原の事件をみて、自分も後に続きたいと考えている低い知力の人間が何人もいるといると私は思っている。保育士や介護士、関係ない。どこにでもある一般企業の、どこにでもいる一般的な会社員が、明日にも満員電車の中で、ナイフを振り回すかもしれない。普段から攻撃的精神を選択肢に取り入れて、その可能性と向き合っていれば、そんな選択はしなくて済んだだろう。どう考えてもバッドアンサーだ。捕まったら刑務所行き、好きな時にマックが食えなくなる日常なんて、考えただけでも恐ろしい。すぐに取り押さえられるだろうが、数人くらいは殺せるだろう。

 この社会の中に生きるたった一人の人間が「それだけでも十分だ」と思えた時、それだけでこの思い付きで書いた架空の事件は発生する。毎日電車通勤を利用している会社員はスーツなどの「ぬののふく」ではなく、しばらくの間はアーマーなど、防御力があるものを装備して乗車する事をおすすめする。


鎖帷子 チェーンメイル

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死から始まる

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