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人は、言葉からは逃れられない。

またいじめについて語ってみた(2016/10)

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 毎年夏は創作サイトやブログの中で、自身の体験を基に、いじめについて語ることにしている。夏休みの終わりと共に、いじめを苦に自殺者してしまう若者が多いからだ。

 私も中学生の頃、日常がいじめ状況に陥った。その体験をきっかけに自身の非定型特徴に自覚が持てたわけだが、どこかでなにかが違っていたら、自殺していたのかもしれない。もしかしたら、クラスメイトを殺していたかもしれない。その可能性は十分にあった。

 小学生の頃は他の男子生徒と一緒に、いじめをしてしまったこともある。相手はクラスメイトの女の子だった。学級会でいじめは終結したけど、もしかしたらその子は自殺していたかもしれないし、実はもう、自分の知らないところで自殺しているのかもしれない。

 今年の夏は自分の転職活動が重なったこともあり、いじめの記事を書く時間がとれなかったのだが、先日ようやく内定が決まった。初めての障害者雇用枠での就活、その緊張が少しずつ溶けていく日々の中で、そろそろいじめ記事の内容を考えようと思っていたところに、タイムリーなツイートが目に留まった。はるかぜちゃんのいじめ論ツイートだ。


 今年は彼女のツイートをお借りする形で、いじめについて語ろうと思う。

・そもそもいじめとはなにか
・いじめは、なぜ起こるのか
・いじめは、なくせるのか
・いじめは、どちらが悪いのか
・いじめという単語について
・いじめ論の話は、なぜ論争化するのか
・どうすれば、"いじめられ状態"から抜け出せるのか

 こういったいじめにまつわるテーマに関心のある人は、ぜひ読んでほしい。

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■いじめのタイプ:「愉快」と「嫌悪」に分けて考える

 まず「いじめ」という言葉が使われる時、主に2つの意味で使い分けが行われている。一つは「状況を指していじめ」、もう一つは「行為を指していじめ」である。

 この点を分別する感覚を持っていないと、いじめに関する話をする時、やりとりがこじれる場合がある。例えば「日常的にクラスメイトのA君から、からかわれていること」について話す時、"からかい行為"を指していじめと言いたい場合と、"日常的にからかわれている状況"を指して、いじめと言いたい場合があるだろう。

 それらを踏まえて、始めに、この記事で扱う"いじめのタイプ"を解説する。

 一口にいじめといっても、学校のクラスメイト同士で起きるいじめから、生徒と教師の間、部活の先輩と後輩間で起きるいじめ、会社の上司と部下の間で起きたいじめと、様々なケースがある。そのケース別に状況の性質や、解決する上での課題が異なるわけだが、「いじめ」という言葉が使用される時は、使用者本人の恣意的な基準が根深く絡んでいる場合が多く、はっきり言って共感し難い内容のものが多い。実際、「いじめはよくない」という価値観は同じなのに、それ以外の考え方のところで、論争に発展しているやりとりは珍しくない。

 一応、文部省がいじめの定義を定めてはいるのだが、第三者が介入しやすいことを要とした為か、なんともはや、ざっくりとした文章でまとめられている。そもそも「いじめ」という言葉は、ある特定の状況下に陥った現場に対する総称に過ぎず、現場個別の事情までを含めた言葉ではない。他に同等の単語を挙げるなら、例えば「事故現場」や「殺人現場」がそれにあたるだろう。実際にそこで何が起きたかまでは、わからないのだ。

●いじめの定義:文部科学省

 http://www.mext.go.jp/ijime/detail/1336269.htm


●愉快の悪化

 小学六年生の頃、自分のクラスで起きたいじめがこのタイプだったと考える。クラスの男子生徒の8~9割がいじめる側で、いじめられたのは一人の女の子だった。以下、「Aちゃん」とする。
 Aちゃんは明るくて元気な子で、言動が特徴的で面白い子だった。人が嫌がるような事をする子ではなかったし、嫌っていた子は誰もいなかったと思う。

 男子生徒とも気軽に雑談や笑い話ができる子だった。小学生の内はどこの学校でも、男女関係無しに一緒に遊ぶ空気があったと思うが、あえて強調するのは、その子が特別目立っていたような気がするからだ。

 二学期の半ばだったが一学期の終わり頃だったか、いつからかははっきり覚えていないが、少なくともAちゃんは三学期の間、卒業間際にそのいじめの事で学級会が開かれるまで、ずっといじめられていたと思う。

 なぜいじめ状況になったのか、私が覚えている限りの経緯を言うと、最初は皆で冗談を言い合っていた。「ばーか」とか「うっせー」とか、そんな汚い言葉が混ざっていたが、みんな笑っていた。何の影響だったかは思い出せないのだが、お笑い番組だったかもしれないし、漫画の影響だったかもしれない。相手を馬鹿にする言葉をいかに面白可笑しく言えるかを競っていたような記憶がある。

 その言い合いが、いつからか相手の身体的特徴を指すようになった。例えば「でぶ」「はげ」などだ。より笑える言葉を追求した末にそうだったんだと思う。Aちゃんがターゲットになったのは、この遊びの内容がそんな風に変化していった頃からだった。

 Aちゃんには他の女の子とは見た目に違うところがあった。まず、髪の毛がくるっくるの天然パーマで、頬にはそばかすが一杯あったということ。そして洋服は、オーバーオールやジャンパースカートのようなタイプが多く、それらは他の女の子があまり着てこない格好だった。加えて、土色系というか、泥で汚れたような柄の服を着ていた事もあり、それが髪型やそばかすの特徴と合わさって、なんだか汚らしく感じられる時があった。喋り方も特徴的で、アニメの台詞を真似しているかのように極端な抑揚をつけていた。それがAちゃんの普段の喋り方だった。記憶違いかもしれないが、将来は声優を目指していると何かに書いていた記憶がある。

 私の知る限り、私を含めて、直接Aちゃんに何かを言った人はいなかった。暴力をふるったということもないはずだ。やっていたことは、Aちゃんに辛うじて聞こえるように陰口をしたり、すれ違っただけで「うあぁあぁぁ~!w」と言いいながら大袈裟に避ける動作をしたり、近くには立たず距離を置いたり、そういう扱い方をして反応をみること、大袈裟に表現する事が主な行為だった。そんな風に、周囲だけで共有していく形でその"遊び"は続いた。

 Aちゃんの特徴の事も、直接言葉に含めて話すようなことはしなかった。みんなで話し合ってそう示し合わせただけでもない。みんなその特徴の事を意識していたのは間違いないと思う。でもそれを言ってしまうと、"傷つけること"が目的になってしまうと思えたからなのかもしれない。あくまでも"遊んでいる"のであって、そのラインを守る為だったと思う。まだガキだったせいか、はっきりと認識できた感覚ではないのだが。

 ただ、その代わり用いられた言葉には、「病原菌」や「ばばあ」といった、とても侮辱的で差別的な単語が多かった。競うように、より面白可笑しい表現でAちゃんを嘲笑することがあの頃の日常で、ステータスだった。私もそのメンバーの一人だった。

 これが一緒に遊んでいる中で起きたいじめ「愉快の悪化タイプ」である。
 小学六年生はまだ子供だが、基本的な善悪の区別はあったし、「楽しい」や「嫌だ」の分別もできていた。でも、競うように「笑える」を追求した末に、相手を酷く傷つけてしまっている事、お互いが笑える範囲を逸脱していた事に、気づけなくなっていたのだ。

 他、特に親しくもないグループからのいじられ役になってしまうのも「愉快の悪化」タイプのいじめだろう。例えば、イケメングループが普段全く接点のない特定のオタクタイプのクラスメイトに対し、特に用事もなく話しかけて反応を楽しむなどの行為が挙げられる。それだって毎日続けはいじめが連想できる。

 やっている側だけが愉快になれて、やられている側は不愉快になり、傷ついていく。それがこの愉快タイプの特徴だ。

 お笑い芸人のいじり行為がいじめを冗長させる云々の話も、このカテゴリに含まれると言えるだろう。

 いじめ行為になっていると自覚していないだけなので、注意すればすぐに終わる傾向にあるのも特徴だ。

●嫌悪の悪化

 中学一年生の頃、自分のクラスで起きたいじめがこのタイプだったと考える。男女混合10名ほどのグループが一人の男子生徒に対し、日常的に誹謗中傷の言葉をぶつけたのだ。その男子生徒とは、私の事である。

 まず嫌われるまでが早かった。一学期の序盤からもう距離を感じるようになり、積極的に話しかけるも「うるさい」「お前どっかいけ」など乱暴な言葉であしらわれることが多かった。たまに仲間に混ざれたかと思えばいじられ役で、嫌な思いが日に日に募っていった。

 一学期の終わりには、自分はその状況を「クラスメイトからいじめられている」と認識していた。怒られた時も「自分だけが怒られている」と嫌な方に思うばかりだった。現実的には「自分の言動に難があり嫌われた、みんなが困っていた」が正しかった。

 早々にいじめ状況が形成された背景には、いくつかの理由が複合していたことが指摘できる。まず、クラスに小学校からの友達がいなかった。そもそも自分と同じA小学校から進学した生徒が少なかった。クラスメイトの大半を占めていたB小学校から進学した生徒は、どちらかと言えば言葉遣いが荒かった。遊び方も乱暴な生徒が多かったことも無視できない。そして自分は言動が特徴的で正義感が強く、一緒には遊びにくいクラスメイトだった。その特徴は、成人後に発達障害の診断が出るほどだった。大声をあげたり、毎日自分の好きな話ばかりをしたり、正義感が強くてちょっとしたことで怒鳴ったり、クラスメイトを怒ったりする。かと思えば一日中不機嫌でムスッとしていたり、急に泣いたりする。掃除もてきとうにやったりする。一人遊びが多い上、誰かに話しかける時はその相手を選ばない。

 そんなわけで、中学一年生の間に、自分の事で二度、学級会が開かれている。一度目はいじめ問題として処理され、関係生徒が謝ったが、二度目は先生も首を傾げた。そして、困っているのは他の生徒だった事に気が付いた担任は、遠回しに私を指導したのだ。
 その時の私は、自分が注意っぽい話を受けている理由が理解できなかった。
 自分の言動に問題があると自覚できたのは、中学二年生になってからである。

 このいじめの厄介なところは、誰でも持っている感情「嫌悪感」が根にあることだ。
 例えば、『テレビをつけた時、嫌いな芸能人が映ったからチャンネルを変えた』、『SNSで、鬱陶しい奴がいるのでブロックした』といった、あの感覚である。

 嫌悪感には正当性がある。他者と共有する事で、精神面の健全性を保つことができる。だから広まりやすいし、根強いものになる。
 クラスメイトからいじめられている上に、誹謗中傷だけではなく怒られたこともある人は、このタイプのいじめ状況に陥っている可能性があるだろう。なぜ怒られるのかというと、つまり「お前、いい加減にしろ。困らせるな」という事なのだ。

 「いじめた方が悪い」という倫理観が障害となり、いじめられている本人がその状況に陥った経緯を全く理解していない場合が多い。第三者目線でも、いじめられている側がただの被害者に見えてしまう。学級会が開かられれば、いじめていた側が一方的に悪者扱いされる為、真意を見抜けなかった場合は、より悪化することもある。

 このいじめタイプは最凶に解決が難しい。いじめ事件と聞けば、誰もがやられている側の味方につくものだが、完全解決の為には「嫌悪感を逆撫でする言動」をなんとかしなければならないからだ。
 仮にその学年でのいじめ状況がおさまっても、当人が自覚していなければ、次の学年でもいじめられる。まずいじめではなく、最初は嫌われるところからスタートする。

 あなたは嫌いな人とも仲良くできるだろうか。貴方が無視している相手は、もしかしたら、「自分はいじめられている」と思っているかもしれない。

●いじめのタイプまとめ

 最初にも言った通り、いじめの状況は様々で、明確な線引きがまだ定義されていない。行為だけみれば家庭内のドメスティックバイオレンスだって当てはまるところがあるし、教育熱心な会社の上司のパワーハラスメントだっていじめみたいなもんだ。

 私はいじめ状況とそれ以外の線引きを、「プライベート感+他人同士」を一つの基準にしている。職場環境の中での事なら「ハラスメント」、家庭環境の中なら「ドメスティックバイオレンス」。このように使い分ける事を意識している。
 その上で、「プライベート感+他人同士」の主ないじめは、「愉快・嫌悪」に分けられるということだ。

 無論、それがいじめの全てとは言わない。どんないじめも最終段階では「愉快と嫌悪」が混合してゆくからだ。
 ただ、少なくとも、この2タイプの違いは分けて考えた方がよい。自分が、または友達が、あるいは家族が、いじめられているとわかった時、必ずこの二方面から考えることを推奨する。

 次の環境でも同じことが起きない為だ。

 「(転校先・次の学年・新しい塾)では、いじめられない」と言い切れるだろうか。もし嫌悪感が基になっている場合、いじめられる段階までは悪化しなくとも、嫌われる段階まではまた、再現するかもしれない。

 その時また、「いじめるやつが悪い」と、貴方は言えるだろうか。

 いじめられるたびに「いじめた奴が悪い」と思うのは結構。でも私はそれだけの奴の事を、迷惑な奴だと思う。

■いじめの解決方法

 上でも少し触れているが本項では詳細に解説する。
 いじめは急に始まるものではなく、必ずいじめ状況に陥る前の状態があり、それを識別することが肝心だ。それが上でも説明した「愉快の悪化」と「嫌悪の悪化」である。

●愉快と嫌悪の分別方法

 それぞれ傾向として異なる特徴がある。「愉快」の場合は何もしていなくてもいじめ行為をされるということ。笑いのネタの為に、常に観察されているからだ。
 「嫌悪」の場合は、自分の言動に対していじめ行為が返ってくること。いじめというより、「乱暴に注意されている、怒られている」と考えてみればわかる。だから、何もしなければ何も言われない。

 休み時間や授業中など、一言も喋らずにじっとしている、静かにしている、教室から出て存在の気配を消す、などの方法を一週間か二週間、しばらくの間試行することが判別法の一つだ。

 愉快いじめなら、何もしていなくたっていじめ行為は続くだろう。嫌悪ならその日の内から、自分がいじめだと思っていた行為が止んだとしても全く不思議ではない。

 私の場合がそうだった。驚くほど、何もされなくなった。自分の言動がトリガーだったと、認めざるを得なかった。

 無論、書いたとおりの結果になったところでこれとは違う可能性もあるが、いじめの状況を考える上で、これほど重要な情報はないだろう。
 とにかく、何をしている時にいじめ行為が起きるのかを特定することだ。

 いじめ行為とは計画的に行われることではない。条件反射で行われる"反応"なのだ。

●愉快の延長

 いじめている側がいじめ行為だと認識していない可能性が高いので、先生か誰かにいって注意してもらうことが望ましい。
 先述したAちゃんの時は、Aちゃんの友達が勇気を出して、一部のクラスメイトにだけ注意をした。私も注意されて、その時に、いじめをしていた事に気が付けた。
 それ以降も続けた生徒はいたけど、とにかく、私を含めて一部の生徒が止めたことは事実だ。
 最後には先生の力が必要だった。学級会が開かれたが、その後はいじめ行為はなくなった。

 みんなが憎むべきいじめ状況にまで陥っていた事を、自分たちがしていたことを理解したのだ。

●嫌悪の延長

 互いの欠点を指摘し合える友人がいる事が望ましいと私は思う。その条件が整わないのであれば、自力で「嫌悪感を刺激する言動」を無くすしかない。それも無理なら、周囲が自分に合わせてくれるしかないが、非現実的なことだ。
 一旦「嫌悪が向けられる状態」にまで陥ると、周囲からの風当たりは辛いものになり、やられている側もそれだけで周囲を敵視してしまう。
 そうなると普通に注意する、といったことも難しくなり、仮に熱心に説明したとしても、そもそもそういう生徒は、他の生徒がやった面白い事を自分もやっただけの可能性もあるので、自分だけが責め立てられていると思うだろう。
 学級会を開いても、ただいじめた側が注意されるだけで解決することは絶対にない。一時は収まるだろうが、中心人物の言動がそのままならば、また「嫌われる段階」まで発展する。

 仮にその環境では平穏を得られても、学習しなければ次の環境で同じことが再現するはずだ。偶然にも周囲に悪魔のような生徒がいたとでもいえる状況でない限り、必ず同じことが起こると断言する。なぜなら、嫌悪感は誰でも持っている感情だし、その感情の上手な解消方法を習得している人は、限られているからだ。

 先述したように、じっとしていることで何もされなくなったなら、そうして得た平穏を活用して、自分のこれまでの言動を振り返ってみよう。
 自分の嫌われ要因をみつけることができたら、それを治そう。一つずつ、何年かかってもやるしかない。私はやった。
 もしできるなら、クラスメイトに自分の欠点を教えてもらおう。それも、私はやった。

●行為ではなく経緯と状況から考える

 やられている行為から考えても憎しみが増すばかりだろう。だから、経緯と状況から考えることが大事だ。
 状況がわかれば、周囲がみえる。でもそれだけじゃダメだ。経緯がわかれば、自分がみえる。そこがとても重要なのだ。
 自分がその環境においてどういう影響を与えているのか、そこまで突き止めないと、いじめられる人生は絶対に終わらない。

 このように書くと最もらしい事を最もらしく言っているだけのように聞こえるかもしれないが、いじめなんて、所詮そういうレベルの問題なのだ。

 交通事故が起きた時は、必ず現場検証が行われる。運転手に話を聞いたりして、事故が起きるまでの経緯を明らかにする。なぜ事故が起きたのかを考える為だ。
 今のいじめ問題にはこの観点が欠けている。いじめた側が一方的に悪いとなり、悪いという結論以外の話を許さない。いじめられている、いじめている側が悪い、という事で頭が一杯になり、経緯から考えて原因を突き止めようともしない。本当に、愚かな事だ。

 そんな社会だから、大人の引きこもりに働けと罵った奴が、次の瞬間には、いじめはいじめた奴が悪いっと吼えている。
 いじめの経緯がわかっていればそんな風には考えない。その引きこもりはもしかしたら、自身の嫌悪特徴を克服できないまま大人になった人なのかもしれないのだから。
 
 いじめとは、相手が一方的に起こす問題ではなく、発生要因に自分も関与していると考えなければならないのだ。

■はるかぜちゃんのいじめ論を考える

 先日のはるかぜちゃんのいじめ論を見てみよう。




 まず、どのへんが「いじめ」なのかがよくわからなかった。
 最初の「ある人」というのは先輩か? 偉い人か? その場合は私の基準で言うと「ハラスメント」に相当する。
 ④のツイートを読んだ時に、ああこの出来事がはるかぜちゃんにとっての「いじめエピソード」なんだな、と再認識する必要があった。
 こう言ってはなんだが、はるかぜちゃんの可愛さをねたんでいる先輩が負け惜しみを言っているだけのようにも見える(笑

 いずれにせよ、いじめ感はあまり感じなかった。もしかしたら書いていなかったところにもっと陰湿なエピソードがあるのかもしれない。

 ④の後は、「自分にも原因があるから仕方ない」とか、「悪いところをなおせばいじめられなくなるかも知れない」とか考えて苦しんでいる人に対するメッセージだった。
 「変わる必要があるのはいじめられる側ではなく、いじめる側であるということ」とのことだが、これを言うなら、変わるのは片方だけで良い理由を提示しなければ説得力に難がある。私は両方変わる必要があり、その点を考えなければ、と思うのだが。

 「自分がなりたい自分」を目指して、その姿に少しでも近づけるよう、頑張ろうね(´ω`)」と書いているが、それをするなら、いじめ状況を終わらせてからの方がいいと思う。

 いじめられている人は一日も早く、いじめられない日常を手に入れたいと思っているわけだが、なぜいじめ状況の継続が前提なのか、それがわからない。元気になれる考え方ではなく、当事者はいじめの日々から脱却できる方法を知りたいのだ。はるかぜちゃんは、いじめられていても明るく日常を過ごせる考え方を備えているが、いじめ状況を終わらせる方法を知らないのではないだろうか。


 はるかぜちゃんがこれまでも、いじめに関するツイートをしていることは知っている。内容は良くは知らないが、その都度、論争染みたやりとりが交わされていることも知っている。
 その理由は単純明白だ。はるかぜちゃんのいじめ論は大部分が「こうあるべきだ」が基準であり、「実際に起きている事象」から、かけ離れているのだ。つまり「ポエム」なのである。

 だから先述した嫌悪によるいじめを体験した人などからバッシングを受ける。「一般的にいじめと呼ばれる状況でその考え方は通用しないし、むしろ長期化するだけの事が懸念される」からだ。



 反対である。いじめられた経緯から考えて解決する道を考える、それを当たり前にしなければいけない。自分の嫌悪の要因があるならはっきりと認知する。その方が具体的だし、確実性が増す。それだけの事ができる思考力を人は備えている。辛いからといって辛い気持ちで頭が一杯になってしまう人に合わせていたら、私たち人類は滅んでしまう。

 大多数の人がいじめ問題を、不治の病のように捉えてしまっている。いじめは確かに世界中で起きている共有問題だが、そんなに複雑なものではない。いじめ状況を自分の力で克服した私に言わせば、ほとんどの人が「いじめた方が悪い」とただそれだけを言いたがっているようなもので、何も考えていないし、考える余地がある事を失念しているのだ。集団心理の構造に近いものを感じている。

 そうして自分たちで作り上げた難易度を基準に、いじめを考えてしまっている。
 ワールドサイズで考えるのではなく、まず、たった数十名の人間がいる教室の中で、人間関係トラブルを起こしてしまっている事のスケールに目を向けるべきだ。

 これを読んでいる人に言う。学校でいじめられている者で、なんとかしたいと思っている人は、まず、三日間でいいから、黙って過ごせ。

 誓ってもいい。それだけで何割かの人はこう思う。「あれ? いつものいじめ行為がなくなった……」と。

■今回のまとめ

 あれこれいじめ論を語ったが、別にこれが最上級の正しさだとは思わない。多くの状況に当てはめれるとは思うけどね。
 はるかぜちゃんのいじめ論だって、限定的だが、それがベストマッチする状況は確かにある。自分に光るものがあって、相応に思考力をもっていて、周囲に味方が大勢いる場合で、相手が10:0でおかしい場合だが。

 大事な事は自分や彼女のように、自分の考え方の規格を持つこと。そして、それを現実の中で活用することだ。はるかぜちゃんのその後のツイートを読めばわかるが、彼女が訴えたい事もそこだと私は思っている。

 いじめ問題は自分で考え抜く力を持たなければ、生き延びることは難しい。
 でもこの界隈には、解決力を持たない考え方が定着してしまっている。それが満足の基準になってしまっていて、それが一番の問題だと思う。

 考えることを諦めてはいけない。貴方がほしいのはいじめられていない日常のはず。
 いじめられてしまう条件を考えて、特定して、理解するのだ。そこまでやることを、当たり前にしよう。
 私はアスペ特徴があるけど、中2だったころの自分でも、ここまで考えられたのだから、貴方にだってできるはずだ。


 誰かのことをどう思おうが、それは個人の自由であり、思想の自由である。
 でも「表現の自由」と「行為の自由」は同義ではない。
 嫌悪の対象に、感情をぶつけたくなることはある。でも、その手段に自由なんてない。
 嫌悪をふりまいている奴にも同じことが言える。

 人が困って嫌がる事を、自由にやっていいわけがないのだ。


 考えろ。それを生きている限り、続けるのだ。
 それを続けた者だけが、自分の平和をつかめるのだ。



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