HyogoKurumi.Scribble

人は、言葉からは逃れられない。

私は『考える』ができるようになった瞬間の事を覚えている『「身障」「知恵遅れ」と呼ばれていた子供に起きた突然変異!』

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 成人発達障害へ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 自閉症スペクトラムへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害グレーゾーンへ



 例えば、リビングのソファでコーヒーを飲みながら、昨日の事を考えてみる。洗濯や掃除といった日常の事、夕食のメニューが思い出せないといった些細な事、嫁との何気ない雑談……などなど、あれこれと指定をしなければ「昨日の事」の条件でひっかかる記憶たちが、ランダムに浮かんでは消えてゆく。

 そうしている内に自分の反省点を見つける事もあるかもしれない。その後で、次からは、あるいは、明日からはこうしようと、自己を改める事だってあるだろう。

 このように、記憶や知識を頼りに、頭の中で新しいイメージを生産する事を、私たちは「考える」と呼んでいる。

 私はこれができるようになった瞬間の事を覚えている。
 今回はその時のエピソードを語ろうと思う。

f:id:hyogokurumi:20161107195454p:plain:w300



▼"思う"しかできない子供に起きた突然変異

 あれは中学二年生の二学期半ばだったと思う。その頃の私はなんというか、酷く迷惑な生徒だった。
 誰彼構わず話しかけては自分の話ばかりして、自分の言った事に一人だけでウケて笑ったり騒いだりしたかと思えば、ちょっとしたことで怒りモードになったり悲しんだりして。そうして周囲からあれこれ注意を受けるんだけど、その周りの反応の事は"自分だけに対する攻撃"だと思い込み、最終的には毎日を地獄だと思うようになって、無言の態度で嫌な空気を撒き散らす奴だった。おまけに、その数日後には最初に戻る――

 中学一年生の頃はそれでいじめ問題にまで発展して、二度も学級会が開かれた。私はずっと「自分はいじめられている、これはいじめだ、クラスに嫌な奴らがいる」と思っていた。でも三学期が始まってすぐだったかに開かれた二度目の学級会では、私自身が先生から何か注意を受けた。

 先生の話は遠回しな言い方だった。私はよく理解できず、胸の中につかみどころのないもやもやとした何かが浮かんだだけだったが、私の言動を自重させる効果はあった。結局、クラスメイトとの関係は良い方には向かず、孤立したままその気持ちと向き合っている内に中学一年生は終わってしまったのだが、中学二年生では、一年生の時に別のクラスになっていた小学生の頃からの友達と一緒のクラスになれたもんだから、また元の"明るい自分"に戻ることができた。

 でも楽しかったのは最初だけで、また一学期の半ば頃から日常が地獄になっていた。

 何よりも、その小学生の頃からの友達からも距離を置かれた事が私の心をかき乱した。
 中学二年生のあたりといえば、いつの時代もそうなのかもしれないが、当時はテレビのアイドルたちが秩序であり模範だった。GLAYLUNA SEA、MAXや安室奈美恵、SPEED、SMAPやV6、TOKIOと、テレビの人気者たちの事がとにかく一番であり最高であり、彼らの成す事は全て正しいことだった。

 その空気に溶け込めず、人気者たちを模範とすることもできなかった私の言動はただただ浮いていた。対してその友達は、クラスのジャニーズ的グループの一員だった。そして、私が私をいじめてくると認識していたのがそのイケメングループたちだったのだ。

 毎日気が付けばそのグループから嫌なことを言われていた。自分だけが笑われたり、あれしろこれしろと言われたかと思えば、お前はやるなと、そんな扱いを受けていると感じていた。友達は直接対立関係にいたわけではないが、一度その他のメンバーと一緒になって私の事で笑っていたことがあったので、「あぁ、あいつもテレビの影響を受けてしまったんだ」と思っていた。『学校へ行こう!』という番組が当時も人気だったが、あの番組では人気者たち学校にいる"かっこよくない生徒たち"の言動を笑いのネタにしていることがあった。私に言わせれば自分のクラスで起きている事も同じだった。イケメングループたちは、いつもテレビ番組気取りで振る舞っては、自分たち基準で周囲を扱う。先生だってそれに巻き込まれて困っている。自分がいじりの対象として見られることは仕方ないとしても、実際に日常の中でテレビのムードを再現しようとする無神経さにとても苛立った。

 日に日に募ってゆく苛立ちと、周囲に対する嫌悪感。そして、昂っていく"正義感"。頭の中では毎日クラスメイトをチェーンソーで殺していた。もしその日の気分ややられた事など、いくつかの条件が整った瞬間があったなら、机や椅子を振り回して、その角で頭をかち割るくらいことはしていたかもしれない。

 そんな妄想を頭のどこかでイメージするようになったのが、中学二年生の二学期の頃で、突然変異が起きた事もその頃だった。

 特にきっかけや前兆はなかったと思う。その日、偶然、たまたまだ。
 授業中だった。勉強ができなかった私にとって授業中は何もできない苦痛の時間だった。
 ノートに落書きをしたり、教科書のどこかに面白い事が書いていないかを探す時間だった。

 その日のその時は、友達の事についてふと思うことがあった。自分の事で他の奴と一緒に笑っていた姿が頭にこびりついていたのだが、その時はまず「あんな事する奴じゃないのに」といった風な事を思った。

 その次に「そうだよ、何か変だよ」と思った。

 最後に「もしかして、俺に何かあるのか?」と思った。


 ――その瞬間だった。首の後ろのあたりで、何かが移動したのだ。
 もう少し詳しく書こう。背中側の首の付け根のあたりから頭の後頭部の方に向かって、何かが流れて行ったのだ。ものすごい勢いで。一瞬の事だったが、思わず「うわっ」と声が出そうになったのを覚えている。別の言い方をするならまるであれは濁流。血液が塊となって流れていった衝撃だ。

(今のはなんだったんだろう?)と思った。(なんかが流れていったよな?)と自分に聞いてみる。(血かな? なんか蓋が外れたみたいになって、血みたいなのが流れていったよな。蛇口が思い切り開いたみたいな……)と納得がいくまで何度も言い換えていた。

 一通り思いつく限りのことをイメージした後、やっと私はその変化に意識を向ける事ができたのだ。

 ……なんか頭がスッキリしてるぞ!


▼「あぁ、これが"考える"か!」

 授業が終わるまでまだまだ時間があった。国語の授業の時だったかな。私は自分の身に起きた変化ともっと向き合うことにした。念の為に言うがこの話は実話である。

 今の状態を適切に表現できる言葉は見つからなかった。「頭の中に浮かんでいる事が"わかる"!」という漠然としたイメージがあるのみ。でもそれは信じるに値した。
 私はもっと"今のこれ"を色んな方法で確認して詳しく知るべきだと思った。その方法として用いたのが図形だった。

(まずは、三角形をイメージしてみよう)

 すると、どうだ。できたではないか。頭の中に自分の意思で三角形をイメージして、それを自らの意思で行っているという事までをも認識できているのだ。
 「次は正方形、ただの円……」と、思いつく限りの単純な図形をイメージしてみた。図形を選んだ事に別段理由はなかったが、シンプルでかつ、自分の空想物ではないという事から無意識に選んだ対象だったのだと思う。

 次の段階として、図形を変化させるてみることにした。例えば、三角形をイメージしたあと、それを、じわじわと正方形にしてみるといった、アニメーションのような動的イメージだ。
 それもすぐに、自分の意思で自由にできることがわかった。

「あぁ、これが考えるということだったのだ。俺は今までこれができなかったんだ」

 そんなことを一人で思った。「この体験は自分の人生を変えるほどの、とても重大な事なのではないか」という予感も走ったが、その時点でそれを確かめる術はなかった。

 異変の瞬間からここまで、5分かそこらの事だったと思う。授業はまだ続いていた。
 図形のイメージで遊んだあと、私は直感的にこの力の使い方を理解した。

「この力で、昨日の自分を振り返ってみよう」

 私は落ち着く事、冷静でいる事を意識しながら前日の記憶を探ってみた。そして無事、それをやり終えることができた。
 いくつか思うことはあったが、どれに対してもコメントはしなかった。
 それ以上に優先度が高く、次にやらなければいけない事があったからだ。


▼「今日までの事を、振り返ってみた」

 中学生になってから、今日その日までの事を振り返ってみた。
 頭の中ではじっくり時間をかけていたように思うけど、現実時間では一瞬の事で済んだ。

「あぁ、やっぱり……そうだった」

 私が知ろうと思った事はその一言でまとまった。

 おかしいのは、俺だったのだ。

 私はその瞬間、生まれて初めて"自分を振り返る"ということをしたのだった。
 休み時間に一人でお絵描きをしている自分、大きな声で喚いている自分、すぐに泣いたり怒ったりしている自分、面白い会話を完成させる為に必要な言葉を相手が言うまで何度も同じ話題を繰り返し話す自分、バスケ部のクラスメイトをスラムダンクの影響だと言って馬鹿にする自分、エアガンを至近距離から撃って怒らせた自分、実行委員会の集まりの時に脈絡なく3年生の先輩に口答えしている自分――止まらない非定型言動イメージに付随して、それらが上手くいかなかった事を周囲のせいにしている自分の感情まで、再取得する事ができた。

「最低だ、俺は最低な奴だった」

 あまりに酷すぎて感覚がマヒしそうだった。そのおかげか、「どうしてこうなった?」と、考える時間を得ることが出来た。

 昔の記憶を辿ると、自分は逆子だったと親から聞かされたことがあった。何かのテレビ番組である天才が逆子だったという紹介をみた事があったので、その逆もあるのでは、と考えた。あとどうしても同じ小学校から同じ中学に進学した特別学級の障害者のクラスメイト(I君)の言動がちらついた。「俺の一日はまるでI君のようじゃん」と思えたのだ。彼は周囲が変に思ったり時折困ることをやっていた。そのリスクを問わない言動には自分もイラっとすることがあったのだ。
 でもまさか自分も同じようなことをしていたとは、それを自分で理解することになろうとは、思ってもみなかった。

(まるで自分はI君みたいだ)と思った瞬間、ある事も思い出した。

(そういえば中1の頃、俺はクラスメイトからシンショウと呼ばれていた)

 シンショウとは、身体障碍者の略で、当時流行った差別用語だった。


▼俺は障害者並の何かではないか

 自分が障害者のI君みたいだという印象は拭えず、それを受け止めた方が賢明だと思えた。
 そういえば特別学級の先生が自分によく話しかけてきてたし、私は子供の頃から「お前は知恵遅れか」と何度か親に叱られた記憶も再取得する事ができた。
 とにかく私は他の人から見て障害者的何からしい、その事は揺るがない事実だと思えた。

 私は他に何か要因がないかを考えてみつけようとした。そして、それはあった。

(俺の親は、宗教をしている)

 当時の親は熱心に創価学会の活動に勤しんでいた。私も小学生の頃は妙な集会に参加させられていたし、外から帰ると"勤行"という、仏壇の前で謎の経文を唱える事を強いられていた。
 それは中学1年生の半ばからもうしなくなった事だった。その年の7月、オウム真理教の「地下鉄サリン事件」が起きたのだが、あの事件の報道を通して、自分がやっていた事も宗教だったことを理解したのだ。

(宗教をやっていた親に育てられたから、自分もおかしな頭の奴に育ったのではないか)

 それが当時精いっぱいの予想だった。私は中学一年生になっても、仏壇の前で強く祈ればテストで200点が取れると思っていた。それは自然とやらなくなったが、この時にそういう事をしていた自分の行動のおかしさに気づくことができたのだ。

 何も気づかずにただ言われるがままにやり続けていた自分が不気味だった。
 知的障害者の状態から普通に頭が使える状態に変化したのでは、と予想した。


▼俺を精神病院に連れて行ってほしい

f:id:hyogokurumi:20161108010630p:plain:w300

 突然変異が起きたその日、私は半泣き状態で家に帰った。そして帰宅して早々に母に言った。

「俺を精神病院へ連れて行ってくれ」

 朝から晩まで飲食店を夫婦経営している忙しい母の返事はそっけないものだった。

「あんたなにいっとんの」

 母は詳しく話を聞こうともせず、すぐに仕事に戻っていった。

 その瞬間、私はこれを自力でなんとかするしかない問題なんだと認識した。以後、トーカー事件を起こしてしまう25歳になるまで、本当に精神病院での診察を当てにすることはなかった。

 でも――できるというイメージが1mmも持てなかった。

 親の宗教と宗教の影響を受けた自分、学校ではいじめ……どちらも世界中で答えを見つけることができない難問である事は知識として備えていた。

(こんなわけのわからない状況に陥ってしまった人間は、そうそういるものではない。相談しても陥った状況を理解できる人だって限られている)と思えた。

 何も考えずに学校へ行って、帰宅してからも何も考えずにテレビゲームをする日々が続いた。
 廃人のような人生だった。このまま何も感じずに死にたいと思いながら生きていた。

 俺の人生はもう、駄目だ……。
 これはもう、どうにもならない……。
 頑張ってどうにかなる問題ではない……。


 "考える"ができるようになったばかりの私の脳は、自分のおかれた状況を正確に弾き出していた。当時は知る由もなかったが、この問題は将来、発達障害へと繋がるのだ。

 いつ自殺してもおかしくはない状態が続いた。常に死にたがっていたわけではないが、その気持ちが急激に強まる事が日に何度かあった。条件が整えば、ふらっと電車に飛び込んでいたかもしれない。

 そんな精神状態から脱出できたきっかけになったもの、私の考える力をより成長させてくれたものは、なんと、テレビゲームだったのだ。


▼「こんな簡単なことに気づけなかったのか」

 チュンソフトから発売されている『風来のシレン』という大人気シリーズのゲームがある。当時はトルネコの大冒険シリーズの第2弾として発売されたものだったが、今は独立したシリーズになっている。
 当時はまだこれの第一作目しか存在していなかったが、発売されてから二年近く経っていたこの頃も人気ゲームの一角だったと記憶している。私もそのゲームが好きで、これを黙々とプレイしていた。

 地下一階から二階三階……と進んでいくダンジョン探索型RPGで、その階層に応じたレベルのモンスターが行く手を阻む。深さに応じてモンスターが強くなっていくので、モンスターを倒してレベルを上げながら進まないと自キャラと敵の強さの差が広がりすぎてしまい、いつかは対処できなくなってしまう。
 アイテムも一部は名前が暗号化されていて、使用する、または特別な識別アイテムを使用しなければ効果がわからない。その手探り感もこのゲームの魅力だった。

 その時の私は考える力を使い、そのゲームの仕様について考えながらプレイしていた。
 突然変異の日から二週間程度、何の希望も持たない廃人のような人生は、ある発見を機に逆転したのだ。

 強いモンスターが現れたら、自分を強くしてから挑むか、どうしてもダメなら逃げればいい。効果がわからないアイテムは、とりあえず使ってみればわかる事もあるし、他の手段を得てから調べればいい。
 これって人生でも、同じではないか。


 私は普通がわからない。だから日常が上手く生きられない。
 でも、明日は1つ、普通が何なんのか、わかるかもしれない。明日はわからないかもしれないが、明後日はわかるかもしれない。毎日1個普通を知ることが出来れば、一年で365個の普通を知った事になる。
 わからないなら、わかる為に必要なことをしたほうが、より良い結果が得られるだろう。
 筋トレだって、何も考えずにするより、理想的な筋肉をイメージしながらやった方が、きっと良い結果が得られるはずだ。
 勉強だって、わからないとただ思うだけじゃなくて、なぜわからないのかを考えて、わかる為に必要な行動を探して、それを実際にやってみれば、わかるようになるかもしれないではないか。

 思ったことは大体そんなことだった。私はコントローラーを放り投げて、泣いた。こんな簡単なことに気づけなくて、今まで苦しんでいたのかと、自分が情けなくて悔しくて、泣いてしまったのだ。

「これが、"考える"なんだ。みんなごめん、俺が馬鹿だから、わからなかった。迷惑をかけて、ごめん」
 学べたことの喜びを噛みしめつつ、私はクラスメイトの皆に謝っていた。何度も何度も謝っていた。


▼信用できる自分を創る

 気持ちは立て直すことができた。頑張って生きて行こうと思えた。それでも、問題が解決できたわけではなかった。

 今も自分はシンショウと呼ばれる程度の力しかないし、私の頭の中には親が自分にやらせた宗教的基準がどこに潜んでいるのかわからない状態だった。
 そうやって考えている今の自分だって怪しいものだった。率直にいって、自分の事は何も当てにすることができなかった。

(こんな時、どうすればいいんだ?)

 考えた末、今の自分の事は何も当てにしない事にした。
 そして、当てにすることができる自分を再構成する事にした。

(全ての行動を再確認しよう。とにかく、やるしかない)

 それは途方もない事だった。でもそうしなければいけないと強く思った。

 私は早速、翌日から実行した。
 朝起きて目を開けた私は、こう考えた。

『なぜ、目を開けた』

 と。そして、心の中でこう答えた。

『目を開けなければ、暗くて何も見えないからだ』

 そして、起き上がった。

『なぜ、起き上がった』

 こうしないと、立てないし、移動できないからだ。

 その後も自分自身に対する質疑応答を細かく続けた。着替えて、制服を来た。その後、カバンを持った。階段を使って一階に降りて、朝食を取った。それらの行動一つ一つに「なぜそうした?」をぶつけて、理由を作ったのだ。

 学校へ行く為に外に出た。冬なのに、お日様の光がとても暖かく感じられたのを覚えている。恐らくずっと以前から自律神経がやられていて年中その影響による慢性的な悪寒に包まれていたと考えられる。中学生に入ってから冬場なんかは服を6~7枚重ね着していたが、この時からそういう事をしなくてもよくなっていた。

 それから私はなんでもこの力を使って、考えてから行動する事にした。
 私はすでに嫌われていたので、その延長による対人トラブルだけは避けられなかったが、これ以降、私はいじめに遭うことはなくなった。中学三年生はそれまでとは比較にならないほど、穏やかに過ごすことができたのだ。


▼勉強よりもコミュニケーション力が大事

f:id:hyogokurumi:20161108011043p:plain:w300


 それからしばらくして私は中学三年生になった。高校受験を意識しなければいけない学年だったが、私はあえて勉強を完全放棄して、コミュニケーション力と向き合う道を選んだ。

 元々私は勉強はできない奴で、黒板を丸写し、先生の話を暗記することが勉強だと思い込んでいて、この時にはそれが勉強のやり方として正しくない事は理解できていた。だから今更やっても間に合わないだろうという判断があったことは否定しないが、『勉強ができても人と意思疎通ができない人間は大人になってからも生きていけないはずだ』というのが、当時の私が考えて出した答えだったのだ。

 それからも対人トラブルは避けられなかった。でも私はもう、それまでと同じ理由で感情的に苦しむことはなくなった。
 何故なら、全て自分が考えて取った行動だからだ。そこに込めた己の責任や意思と向き合うことができるからだ。

 あれから二十年。私はいま33歳になった。人からはよく賢いと言われ、発達界隈では処理速度が高いとか高機能だと言われる事も少なくない。
 そう言われるたびに、私はこのエピソードを思い出す。

『違うんだ、私はただ運がよかっただけなんだ』(俺もよくわかんなけど首の後ろのあたりで変なことが起きただけなんですよ)と思うのです。

 そして発達障害精神疾患界隈で、自分の考え方について悩んでいる全ての人に対し、私は、あの自分の身に起きた突然変異無しに状態がよくなるものかと、思ってしまうのです。


関連記事 hyogokurumi.hatenablog.com

hyogokurumi.hatenablog.com

hyogokurumi.hatenablog.com hyogokurumi.hatenablog.com