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HyogoKurumi.Scribble

私はこの社会が省略した事柄を言語化している人です。

【前編】私が治療薬(発達/精神系)を使わずに生きてこれたわけ【分岐点1~3】

【発達障害】
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 精神疾患発達障害はその線引きがどこか曖昧なせいか、発達障害の界隈でも当事者会に参加したりネットで当事者会グループの中に入れば、まず間違いなく精神疾患を抱えている人とも関わることとなる。両方の診断を受けている人が多いからだ。

 私も診断を受けてから自分以外の当事者たちと関わるようになった。先に書いたように、当事者の集まりに参加したり、ネットのグループページの中でやりとりしている。

 障害は生まれつきのものとされているが、私は障害特徴がありながらも未診断のまま、グレーゾーンとして生きてきた。だから他の当事者と密に話すようになったのは30歳になってからだ。

 

 そうして、最初に感じた事が「疎外感」だった。この感覚は、私のように診断が「発達障害」系のものだけで、障害特徴は主に自助努力でなんとかしている人たちにも多いと思う。

 私は治療薬を使っていなかったから、他の当事者と同じ調子で、会話にのれなかったり、混ざれなかったりする事があったからだ。

 

 何より、薬を飲み続けている理由や飲んだ経緯に触れる事が、ある種のハラスメントに接触する事が察知できたからだ。そういう事もあって、薬に関する話題には一歩距離を置いていた。

 

 今回の記事では、発達障害の診断を受けており、医者から統合失調を指摘されたこともある私が、なぜ私が薬を飲まずに――いや、治療薬を「回避」してこれたのか、そのエピソードを話そう。

 

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▼分岐点1 中学生のいじめ体験の時

 私が始めに治療薬へのリーチがかかったのは、中学二年生の時だった。自身の非定型特徴を自覚した年である。きっかけはクラスでのいじめ体験だった。

 おかしいのは自分であり、いじめではなく嫌われていたのだと、そう認めざるを得なかった。


 その日は「人生の終わりだ……」と思いながら帰宅した。
 大袈裟ではなく、そう思えるだけの根拠があったのだ。

 

 当時の私の親は、創価学会という団体の熱心な信者で、物心ついた頃から私もよくその話を聞かされていた。というか、生後すぐに入信させられていたらしい。


 小学生の頃は、家から帰ったら仏壇の前で謎の呪文を唱えた(ダイモクサンショウと言う)し、悪い事をした時には「御本尊様に謝ってきなさい」と言われ、仏壇の前に座らされた。そんな感じで私の親は、私を教育をする上で、肝心な時に「御本尊様」とか「題目」とかそんな言葉を混ぜていた記憶がある。

 

 小六の時に起きたオウム真理教地下鉄サリン事件の記憶もあって、私は中学生になってから、これらが宗教活動であることを意識するようになり、それと関係する事柄を日常から排除するようになった。創価の担当者にも、もう会いに来ないでほしいと一生懸命に伝えた。

 担当者は何かと理由を作っては不定期に家に来たが、中学二年生になった頃には自分にとって、創価との関わりはもう過去の事になっていた。

 それでも、そういう境遇の中で育てられたという事がとても気がかりだった。

 

――宗教してる親に育てられたから、俺の頭もおかしくなったんじゃないのか?

 

 その可能性はゼロではないと、そう思えた。自分の頭の中の思考は、なに一つ信用できない、当てにならないと考えたのだ。

 

 だから、これは自分の力ではどうしようもないことで、医者に診てもらう必要があると思ったのだ。

 

 話を最初に戻そう。
 そうして、家に帰宅した私は、まず自室を目指して階段を上がろうとしたのだが、一階の調理場で仕事をしていた母がたまたま近くに来たものだから、私は「精神科へ連れて行ってほしい」と泣きそうな顔で言ったのだ。


 すると、思ってもみなかった返事が返ってきた。

 

「おまえなに言っとんのや」

 

 母はそう言うと、ムスッっとした様子で仕事に戻った。
 
 世の中には、自分が精神病、あるいは障害者なのかもしれないと、そう仄めす話を耳にしただけで平常心が乱れてしまう人がいるのだが、母も典型的なその人だったと思う。

 てっきり心配されて病院に連れて行く手配をしてくれるものだと思っていたので、私は酷く動揺した。

 

――ああ、これはもう、自分の力でなんとかするしかない事なのだ。

 

 私にもう少し考える力があったなら、母や父に自分の状況を詳しく説明したり、学校の先生に相談したりと、あの手この手を打ったかもしれない。

 でも、当時は中学二年生で十三歳。まだまだ単純な事しか考えられなかった私の脳は、もう医学は頼れないまま生きていくしかないと、そう考えたのだった。

 

 何人かに言われたが、副作用に苦しんでいる人やその現状を知っている人から見れば、これは幸運なこと思える事らしい。

 たしかに、ここで診察を受けて治療薬を提案されたら飲んでいたかもしれない。その後、副作用に苦しんで廃人になっていたかもしれない。
 でも、私はこれを、どうしても良い出来事だとは思えないのだ。


 私はその後、人間関係で悲惨な思いをして高校も中退したけど、そのことを恨んでいるのではない。それが「私の人生」であり、その認識に、それ以上それ以下もない。

 

 親はただ何もしなかったということ。それがこのエピソードに対する評価を下げている。
 この時のことを、決して良いと思ってはいけない。私はそう考えているのだ。
 

分岐点2 高校を中退した時

 2度目のリーチは高2の夏だった。

 電車で通学していた高校生活は辛うじて、完全良好とは言えないものの中学の時よりは比べものにならないほど平穏で、嫌われてしまう事はあっても、いじめられないくらいの人間関係を築けていた。

 

 しかし私は夏休み中に、地元の中学生の頃の交友関係の中で大きなトラブルを起こしてしまった。友達の友達に暴走族メンバーがいて、その彼を怒らせてしまったのだ。

 原因は私の失言だった。冗談のつもりで不愉快な事を言ってしまった。高校生活が平穏で楽しくて、気が緩んでいたのだと思う。当時も思い知った事だが、まだ気を緩めてはいけなかったのだ。

 

 リンチや暴力など酷いことはされなかった。自分からだったか、言われてやったのかはもう覚えてないが、土下座をした。その頭に唾を吐き捨てられた。

 そして、ただただ怒られた事を覚えている。

 

「なんであんなこと言ったん?」
「…友達だと思ったから」


「友達やったら言ったらあかんことあるやろ」

 

 当時別の友達が飲食店である私の家でアルバイトをしていたのだが、その彼の仕事が終わったあと一緒に遊ぶので、終わるまで私の部屋で待たせてほしいと言ってきたのを、私が酷い言い方て断ったのだ。

 

「お前なんか来るな、眠いんじゃあ」とか、そんな乱暴で嫌な感じの言い方だったと思う。たしかにその日、私は強い眠気を感じていた。あと、お盆の時期でたまに親戚が来ていたので、友達を家に招きづらかった。そんな気分だった。

 そんで私は、当時好きだった不良系漫画の口調で返事をした。

 悪気は一切なく、だから彼がとても不快になったなんて全く想定もしていないことだった。

 

 唾を吐きかけるなど、彼の怒り方には汚くて酷い行為があった。

 でも彼の言う事はその通りで、正しい事だった。

 それは理解できた。心の中で何度も「ありがとう」と言った。

 苦しい気持ちを打ち消すつもりで。

 

 でも、中学の頃のいじめ体験で自分の非定型を理解できたと思ったのに、あれから頑張って普通に慣れたと思ったのに、その人間性は騒音で世間に迷惑をかけている暴走族以下なのだ。勉強だって彼より出来が悪いことを知っていた。

 

 その事がたまらなく悲しくて、「死にたい」という気持ちと「まだ諦めるな」という気持ちがしばらくの間、私の感情を掻き乱した。

 

 それと連動して、私は外に出られなくなってしまった。

 バイクの音が怖くなってしまったのだ。

 

 不思議な事に、彼に怒られた夜、彼がバイクに乗って現れたわけではないし、別にバイクに関するエピソードもないのだが、「暴走族といえばバイク」という関連性がそう思わせるのか、街中でバイクの音を聞いただけで私は震えが止まらなくなってしまったのだ。

 

 それは一日、二日、三日と、日が過ぎても治らなかった。たしか落ち着くまでに二週間ほどかかったと思うが、その間私は、程度こそ定かではないが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状に見舞われていたのだ。

 

 この時もし、私がPTSDの知識を持っていたら、精神科への受診を考えていたと思う。

「もっと悪化するかもしれない、念のため精神科で診てもらおう」

 あの頃の私ならきっとそんな風に考えていたと思う。事情を聞いた親も心配してくれていたし、親同伴で病院へ行った可能性だってある。

 

 というわけで、この時は私が精神疾患に対する知識が不足していた事で回避できたと言える。その点については正直、詳しくなくて良かったと思っている。

 恐らく治療薬を使っていたら、当時の私は薬と賢く付き合う事はできなかったと思う。高校生活もどっちにしろ辞めていただろう。

 

 副作用に苦しんだ挙句、自殺していたかもしれない。その末路はリアルに想像できる。当時の自分はそれくらいアホだった。

 

 実際、治療薬を使ったことで、その副作用や依存などに苦しんでいる人がいる。「あの時精神科の知識を得なければ」と後悔している人もいるだろうね。

 

 ※分岐点2EP追記:2016/12/21

分岐点3 発達障害を知った時

 高校を中退して、洋食料理店である実家に就職してからおよそ7年、私が23歳の時だったと思う。その頃、店の経営はいよいよ後がない状況に陥っていた。

 

 ギャンブルに熱中してしまった親父の姿を想えば、自業自得だ、という評価はどうしても避けられない。人格にも問題があった。親父は金勘定をどこか悪巧みのように考えている節があったし、母は病的なほど人の世話になることが大嫌いで、自己破産すると保証人である親戚に迷惑がかかるからと、売上不足をカードのキャッシングで補う手段に手を染めた。我が家は決して、クリーンとは言えない事情を抱えていたのだ。

 ただ、バブルの崩壊から始まり、その後に起きた、狂牛病、コックである親父の入院などが重なったことを考えると、経営回復の難易度はとても高かったとは思う。精神的に強くもなくなかったし、賢くもなかった。私を含めて一家全員に、経営状況を回復させるだけの力がなかったのだ。

 

 そこで登場したのが、借金の保証人でもある親戚の伯父だった。父の兄であり、祖父の会社を継いだ人であり、つまりは社長だ。その人がみて、店を救うには、若い私が借金を継ぐしかないという結論に至った。

 私は、親の事は嫌いだったが、二人が創る料理は好きだった。今でも親の料理以上に美味いものは食った事がないと密かに思っている。二人は経営と金の使い方がダメだっただけで、そこをきちんと整理すれば店を立て直せると、私は常々思っていた。

 経営のイロハも基礎も、それ以前の世の中の常識すらもろくに何もしらない私は、ただそう感じたという漠然とした気持ちだけで、店を存続させる話、つまり、借金ごと店を継ぐ話に了承をした。そんなんで、私は冷静に判断したつもりになっていた。借金の総額は記憶違いでなければ、6~7000万円はあったと聞いている。

 この判断が良かったのか悪かったのかは考えるまでもなく、Badだろう。問題は、足りない知恵で考えているという自覚もなく、一生懸命頭を使えばそれで考えたつもりになっていた。当時の私はまだそんな風に物事を認識していた。

 

 自分が経営をする、親を使う、という意識で仕事をするようになってから、私は全力を尽くす意思を高め、今のうちに出来る事をやり、問題点を洗い出しておこうと考えた。経理を覚える事、経営を理解する事など、基本的な事から難易度の高い事まで、自分なりにアンテナを張り巡らせていたのだが、その中で一つ、自分の言葉ではなんとも形容しがたい奇妙な光景が、他の事とは別の意味で気がかりだった。それが、母の仕事のやり方だった。

 

 調理補佐全般とそれに付随する洗い場を担当していたが、その洗い場の使い方が奇妙だった。使い終わった調理器具のボウルやお皿を洗い場に入れる時、それらの大きさが近いなら重ねることで、水槽のスペースを確保できる。別々に置くとそのぶん使える空間が減る。当たり前の事だが、母はそういうことを度外視する様子で仕事を進めていた。

 今思えば、細かい仕事量が多かった為に、そういうところまで気が回らなかっただけの事なのかもしれない。でも当時の私には異様な様子に思えたのだ。私はホールスタッフの接客の他、料理用に使った食器類の洗い場を担当していたが、そのやり方はすぐに習得していたからだ。自分より長く働いている母がなぜそれができないのか、不思議だった。

 

 また例のごとく前置きが長いわけだが、ここからが本編だ。

 

 そこでふと思い出したのが、数年前ワイドショーかなにかで見た「片付けられない症候群」という言葉だった。

 ほとんど消えかけていた記憶を頼りに私はネットで検索をしてみた。
 そして注意欠陥多動性障害ADHD/ADD)」という障害に辿り着いた。どうやらそれは発達障害と呼ばれている障害だった。

 

 wikiの情報を読んで最初に思った事が「これって、俺の事じゃん」ということだった。中学生の頃から考えていた、人とは違う自分の特徴の事、クラスに何人かいる特異なクラスメイトの事、書いてある事のほとんどが「自分がずっと変だと思っていた事」のまんまで、私は「誰にも話した事ないのに」と思いながら、それまで頭の中で築き上げてきた自分の知識の財産を盗作をされたような気持ちで読んでいた。

 

 wikiを読み終えた私はその後、親と自分以上に私の事をよく知っている小学生からの友人に電話をかけて、そのページを読んでもらった。正直な感想が聞きたかった。すると彼は言った。「どちらかといえば君はアスペルガーの方じゃない?」と。

 アスペルガーについてはまだ調べていなかったので、私は検索して関連ページを読んでみた。そして、ADHD以上の衝撃を受けた。そこには、私の人生そのものが記されていたのだ。

 

 まだ診察を受けていないのに障害者だと思う事はよくないと思ったが。しかしあまりに酷似していた。少なくとも医学が障害相当だと定義した特徴と、ほぼ同等の特徴を自分は持っている、その点だけは確かだった。それは親にも同じ事が言えた。

 

 その日のうちに、私は親にその事を話した。
 こういう障害があるということ、そして自分のたちもこれに近い特徴を抱えているということ。自分のたちはどれだけ真面目に考えても、正しい考から外れた選択をしてしまうかもしれない事。できれば全員で診察を受けたいこと。


 当時の自分の言葉で精一杯伝えたが、やはり障害という点が壁となり、まともに取り合ってもらえなかった。継ぐのが嫌になったのか?などと、なんらかの口実に障害の話を持ち出していると、親はそういう風に受け取ったのだ!

 

 次に私は駄目元で親戚の伯父にもこの話をした。反応は親と同じだった。いや、もっと酷かった。「こんな時にそういう話をするのはおかしいと思う」と、突っぱねられたのだ。

 その少し前、伯父は経営アドバイザを連れてきた。5、60歳くらいの人で、その人はお店の様子をみながらいくつかの指摘をしたあと、数年前に死んだ祖母を霊的な意味で呼び出して、母と会話をした。母は泣いて頷きながら話を聞いていた。

 

 私はそんな父母と伯父の様子をみて、心の底から「ダメだこいつら」と思った。

 

 それでも、自分がなんとかしなくちゃいけないと思い、真剣になって取り組んで、その上で障害特徴に酷似という、危惧しなければならない話をしているのに、三人とも聞く耳を持とうとしない。

 

 だから私は店を継ぐ話を断った。最後の話し合いの席で、伯父には一秒でも早くこの二人から金絡みの繋がりを切るようにと、念を押して伝えた。親が自己破産をすることで数千万規模の借金を被るが、それが最も被害を抑えられる道だと直感的に理解できた。例え店を継ぐ話がうまくいき、経営を継続できても、そのあと必ずいま以上の酷い結果に陥ると思えた。それからしばらくして自己破産が決定した。

 

 親と伯父が聞く耳を持ってくれなかった事が一番の大きな要因だが、この時も治療薬へのリーチがかかっていた状況だと言える。

 例えばだ、もし伯父が自分の会社で障害者雇用に力を入れていたとして、精神疾患方面にも相応に理解があり、そういう診察ができる医師に心当たりがあれば、私たち家族は診察を受ける事ができただろう。もしかしたらその先で発達障害治療薬や、他の精神疾患用の治療薬を処方されていたのかもしれない。

 

 当時の判断力や心境的に、もし治療薬を提案されていたらそれを拒むことはなかったと思う。十分にありえたことだ。

 

 ※分岐点3EP追記:2017/01/02

 

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