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HyogoKurumi.Scribble

私はこの社会が省略した事柄を言語化している人です。

怒られる事で生じる健全性に利用される「発達障害グレーゾーン」

【発達障害】
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 発達障害と聞けば、真っ先に連想できる言葉の一つに「生き辛さ」があると思う。

 当事者やその家族、理解者がよく使うし、メディアの情報媒体の上では記事のタイトルの一部に使われることもある。それくらいに強調力があり、実際、多くの当事者が抱えている課題の一つだ。

 これは「グレーゾーン」の人たちにも共通する課題である。

 

 発達障害のグレーゾーンとは、発達障害特徴を抱えながらも、何らかの事情で診察や診断に至っていない境遇に陥っている人を指す。

  グレーゾーンという言葉は、人に対して使う事もできるが、どちらかと言えば本人が自分自身に対してそう意識する時に使う言葉である。そう自覚する人の多くは「過度な不注意」や「非定型言動」など、障害だと思われにくく、本人の人格の問題だと思われてしまう特徴を抱えている人に多い。

 

 この界隈に詳しくない人の為にもう少し踏み込んだ事を言うと、巷で語られる発達障害特徴を抱えながらも、診察を受けられていない人が大勢いるということである。
 その理由は多岐に渡る。発達障害が有名になった事で診察希望者が増え、有名な病院は数ヶ月先まで予約で一杯というのが現状だ。
 他、近所で診察を受けられる場所がない、どうすれば診察を受けられるのかがわからない、予約を取るのが大変、もしかしたら障害の診断が出てしまう事に心理的抵抗がある、診察を受けたが適切な診察を受けられないまま障害を否定された、診断が必須と思えるほど困っていない……などなど、「気になる程度」も含めてしまえば多くの人がグレーゾーンであると言えるし、日常維持が困難な状況に陥っているレベルの人は、発達障害診察を受けた事がある人の数からみて、それ以上にいると言えるだろう。

 

 話を戻す。
 今回はその「グレーゾーンの人」の視点からみた生き辛さの話だ。

 正直、この「生き辛さ」という言葉にはいつも、もやっとさせられる。だから私は文脈上、相当の条件が揃わないと使わない。私は発達障害の代表的な特徴といえる不注意やコミュ障について、自力による追及を重ねた末に、グレーゾーンの時に克服法の一例を言語化できた。だから「生き辛さ」という言葉にはどうしても「諦めている感じ」や「想像力に敗北した印象」を感じてしまうわけだが。

 それでも、「これだけはどうしよもない生き辛さだ」と感じる事がある。

 それが「怒られる」ということだ。

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■とにかく怒られやすい

 私も中学の頃から非定型特徴の自覚を持ちながら、31歳までグレーゾーンだったのでよくわかるつもりだが、この境遇の人はとにかく、怒られながら生きている。それが日常であり、人生観であるほどに。

 どこで何をしていても、誰かを不快にさせたり迷惑をかけたりする。特に不注意や非定型言動はその行動がトリガーとなりやすい。

 自分が怒られている事が当り前、それがその環境における日常の光景になってしまうのだ。
 


■怒られる事で余計に悪化する

 失敗や間違いに対して怒る行為に、教育力があると考えている人は多い。

 しかしこの特徴を抱えた者に対し、どれだけ時間をかけて熱心に真剣に丁寧に怒っても、それが発達特徴の改善に繋がる事は決してない。

 映らないテレビを叩く事で、もしかしたら何らかの作用により映るようになるかもしれない。でも修理にはならない。それと同じで、怒る行為自体に、脳の仕組みを最適に矯正する力が宿る事は絶対にないのだ。

 遠いところで成長のきっかけになる事はあるかもしれない。でもむしろ改善から遠のいてしまうと言っていい。何故なら、「怒る」行為は双方の意識に「絶対」を植え付けてしまうからだ。

 怒られている人を想像してほしい。「次からこうしなさい」「今後は注意するように」など、怒られた側には強制的な命令が提示されるのが常である。それを受け入れざるをえない立場に立たされている。

 この社会は「絶対」よりも圧倒的に「考えて行動すること」が求められる。しかし、この発達特徴を抱えている人は、「自分の感覚」以上に、「記憶」を頼って生きている人が多い。

 どれだけ考えても自分の意思通りに行動できないから、過去に怒られた時の注意や指導の内容を実行するだけで精一杯なのだ。

 本人は大真面目にいろいろ考えているつもりだが、その実態は、ミスしなかったという"まぐれの結果"を、"次も再現すること"に全神経を注いでいるだけに過ぎない。

 そんな意識で生きているものだから、いつまでも成長はない。その「絶対これ」という「依存」から抜け出さなくてはならないのに、怒られる事で、その意識がより深くねじ込まれてしまうのだ。

 これは怒った側にも言えることである。自分が話した内容を覚えておく必要があり、伝えた内容の通りに相手ができているか、その評価もしなければいけない。それだけをチェックするようになってしまうのだ。


■自分がいるだけで環境の質を落とす

 怒られても改善に繋がらないのだから、はっきり言って無駄な時間である。

 グレーゾーンはそれを理解しているが、自分の意思や判断で怒られる時間を消すことはできない。怒られる事を受け入れ、その時を過ごすしかないのだ。

 自分にとって意味がないだけではなく、周囲の時間さえをも無駄にし、さらには向上意欲まで削いでしまう。自分が怒られている事で、周りは余裕を得るからだ。

 
■辞めるしかないという判断に至る

 怒られた後で実際に成長できればいいのだが、それが叶う人はほとんどいないと言っていい。

 先に書いた通り、記憶の再現に囚われている思考回路がより強固に定着してしまい、せいぜい数日の間だけミスをしなかった期間を作れるだけで、その後は怒られる前に元通りである。 

 初めの頃は「誰にでもミスはあるよ」と言ってくれた上司や先輩、同僚の目が、次第にゴミを見る目に変わっていく。

 

  自分のせい周囲の心が荒んでいく事に、耐えられなくなるのだ。


■怒られる事で生じる健全性が壁

  職場でも学校でも家庭でも、誰かが怒られている事で、その環境の健全性を一定量、向上させる効果が生じる。

 それは誰もが感じ取れることであり、だから誰であろうと、必要があると判断されれば、その行動や結果に対して怒られる。

 怒る側は、相応の覚悟や必要性を意識してこれを実行する。その行動と選択は多くの場合「正しい行い」とされ、能力ある行動と評価される。それは絶対的な事であり、その正当性を問うことは、愚かなことだと考えられる。

  このように、怒ることにはその背景に「正義」があるとされ、怒られた側はそれを察する事が求められる。

 この社会は多くの場面で「怒った者勝ち」と言ってしまっても過言ではない。理不尽に感じても、逆らう事はとても難しい。

 

 コミニュケーションの手段として、「怒る」はないよりあったほうがいいと思う。万能だとは思わないが、必要に応じてその手段を使えば良い。私だって仕事の中で、後輩や同僚を怒った事がある。必要と判断したからだ。怒る事が自体がダメだと言いたい記事ではない。

 

  しかし、定型発達でもなければ、何らかの診断を得ているわけでもないグレーゾーンは、必要以上に、その的になりやすいのだ。それが良い現状だとは思えない。

 

 発達界隈では個人事業主になる道を真剣に考えている人が多い。それはこの"怒られる時間"にうんざりしている人が多いからだ。自営業なら仮にミスをしてしまっても、怒られる事に時間を使うより、失敗した分の回復や取戻しに時間を使う事ができる。本来そうするべきであり、そういうスタイルがとれない"定型社会"に呆れている人もいるだろう。


 この課題に対するベストアンサーはないと思う。仮に思いついたところで、今の社会にすぐセットできるかと言えば、全くそうは思えない。 
 この記事を読んで、もし考える余地があると思えたなら、他者に対する自分の怒り方がどれほど効果的であるか、少しでいいから考えてみてほしい。