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人は、言葉からは逃げられない。

「ダメ」と念じることで生じる意識のエラー。発達障害の正体は群発型の中毒症か?

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 最近、気になっていることがある。厳密にはずっと前から思っていたことなのだが、先日、パチスロ中毒記事の最終回を書いていて、確信めいたものが固まったというかなんというか。ともかく、ググってもでてこないし、他の発達当事者から似た話を聞いたこともない、今回の記事はそんな話だ。

 

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似ている...

 私を10年近く苦しめたパチスロ中毒。克服のきっかけは、意識内のカリギュラ現象に気が付けたことだった。

カリギュラ効果カリギュラこうか)とは、禁止されるほどやってみたくなる心理現象のことである[1]。一例としては、「お前達は見るな」と情報の閲覧を禁止されると、むしろかえって見たくなるなどの心理が挙げられる[2]

ローマ帝国の皇帝カリグラをモデルにした1980年のアメリカ・イタリア合作映画『カリギュラ』が語源で、過激な内容のため、ボストンなどの一部地域で公開禁止になったことで、かえって世間の話題を惹いたことにちなむ[3][4]。ちなみにアメリカには「ボストンでは禁止 (Banned in Bostonという慣用句がある。

この効果は、広告宣伝やテレビ番組でも利用されている。例えば、テレビ番組で、「ピー」などの効果音を付けて発言を聞こえなくしたり、モザイク処理をかけて映像の一部を見えなくすることにより、いっそう視聴者の興味をかき立てるなどである。

カリギュラ効果は学術的な用語ではないものの、その内容の面白みからいくつかのビジネス本において紹介されると言った事例がある[1][5][6]

カリギュラ効果 - Wikipedia

  ある時、少ない投資で店を出られた時の違和感を私は見逃さなかった。投資金額的にはまだまだ打ちたいはずなのに、その衝動が全くない。

 打ってはいけないと思えば思うほど膨らんだ打つ理由。その打ちたい衝動は、打ってはいけないと念じる意識の中だけにあり、私はもう「パチスロをやめていたこと」に気がつくことができた。

 ここで注目したのが「"ダメ"と念じることで生じる意識のエラー」で、直後に思い至ったのが「ケアレスミス」についてだった。

 まだケアレスミス特徴を克服できなかった二十代前半の頃は、仕事中はとにかく「ミスしてはいけない、集中しなきゃいけない、気を抜いちゃいけない」と念じ続けていた。ずっとアクセルベタ踏みで走り続けているような感じで、ノイローゼになりそうだと幾度となく思ったものだが、意識し続けることしか術がなかった。

 そう、意識し続けることについては、「むしろ逆効果じゃないか?」という自覚はあったのだ。体感として、そう感じられるからだ。

 でも、意識しなければもっとミスをしてしまうだろうし、集中している様子を表さなければ、周囲から不真面目だと思われる…と、そんな事情を背景に、念じ続けることを自分自身に強いていたわけだが、この「強いた」という部分、私が仕事の為にパチスロを覚えようと躍起になっていた時の状況によく似ている。いや、「同じだ」と言っていい。

 打って覚えなきゃいけない、でも打つとお金が減る、でも打たなきゃ覚えられないそして私は、パチスロ中毒になった。

 では、ミスについてはどうだろうか。ミスしないように意識し続けなければいけない、でも意識していることで余計に疲れてミスが起きている気がする、でも意識しなきゃもっとミスをしてしまうでも意識すると…意識しなければ…………こうして私は「この意識の中毒」になった、つまり、発達障害になった、というのは強引か?

 まぁ、強引だろう。そもそも、こんな風に意識する前からミスが頻発していたわけで、だから意識するようになったわけで。

 この路線で(悪い意味での)ターニングポイントを指し示すなら、もっと過去を探るべきだ。

怒られながら...

 私は夫婦経営で洋風飲食店を営む共働き夫婦に育てられた。

 私が小学校に入学した頃、バブルが崩壊してお店の経営は窮地に陥った。その数年後には狂牛病、コックである父の入院。

 その頃から、お店は自転車操業状態に陥ったと聞いている。

 その期間、私は小学生~中学生だったわけだが、当時の親とのコミュニケーションを振り返ると、とにかく怒られまくっていた日常の記憶ばかりが浮かぶ。「〇〇をしなさい」「〇〇はあかん」という、母からの命令と叱責、父からは「本を読みなさい」という知識の提示ばかり。

 この社会の事柄について、二人から直接、何かを丁寧に教わったという記憶が全くない。気が付いたら自分が何かよくないことをしたという状況に陥っていて、ただただ怒られていた。

 私の頭の中はこの頃から、「してはいけない・しなければいけない」という禁止や制約的な意識が根付いていて、これが私にとっての「教わる」であり、念じて強いることがほとんどの物事に対する判断の基準だった。

 ケアレスミスやコミュ障といった非定型特徴は、このように、自分が自分自身に対してダメと念じて強いることで形成された意識のエラーが起こしていると言えないだろうか。酒やギャンブルなど、対象が外部にあるものではなく、失敗しないという自分の意識に対して、中毒的になってしまったのではないか。

無意識の内に...

 発達障害の特徴として関心の偏りがある。同じものばかりを食べてしまったり、興味を持った物事に対する集中力や知識の習得量が平均を越えてしまったりと何かにつけて、できることやできないこと、わかることやわからないことが偏ってしまう。 

 こうして言うだけならただの「発達障害あるあるの話」なのだが、この記事で進めてきた話を軸にすると、まるで中毒的な印象を受けないだろうか。

「なぜ、そればかりに、こだわるの?」

 発達障害という課題の前には、「原因はよくわからない、発達障害でよく聞く特徴の一つ」という風に曖昧な回答を出すしかない。でも、中毒であるなら話は単純になる。

 中毒状態になると、他のことに関心が向かなるばかりではなく、様々な判断力や思考力が低下する。

 ではもし、人は特定の条件を満たすことで、無意識の内に中毒的になりやすくなる可能性があるとしたら? これこそが発達障害の特徴と言えないだろうか。

 以前書いたあぶり出し型脳の記事の話も連想させることができる。否応なしに起きてしまうローディングの嵐は、中毒的な感覚でその物事を捉えているからではないだろうか。だから時間が経たないと整理できない、と。

 人間関係や仕事上での問題が落ち着いて、やっと日常が平和になったのに、逆に落ち着かない、不安になる、という心境に陥ったことはないだろうか。私にはよくあった。そして変なテンションになって周囲を巻き込んで、またトラブルを抱えてしまう。

 そして滅茶苦茶になった頃に、自分の非定型言動をようやく認知して激しく後悔する。

 ギャンブルもそうだ。一度「やりたい」意識が高まってしまうと、一旦手を付けて満足するまでやめられない。

 その後に激しく後悔する。

 

 これはまるで、禁断症状である。

まとめ

 発達障害のような、平均からずれた思考回路を持つ人になってしまった経緯として、子供の頃、教わる以上に叱られてばかりだった為、ディフォルトの思考回路がカリギュラ的になった可能性を挙げることは決しておかしくないと思う。

 仕事や人間関係について、これまでの発達障害的エピソードを「何らかの中毒状態に陥っていた、禁断症状に陥っていた」と考えると、全く否定ができないのだ。

 また、これは子供だけではなく、大人の世界でも意識したいことだと言える。ケアレスミスや意思疎通の齟齬などを頻発するスタッフに、本人の努力で解決させようと自助努力を促すことは、ほぼ悪い方に向かうということだ。意識させない方向にもっていかなければいけない。私が過去に書いたケアレスミス克服法の記事だって、ミスのことを意識しなくてもいいようにする訓練法なのだから。

 この本記事の争点となる「中毒」についてだが、発達障害と中毒で検索をかけても、この2つを紐づけて考察した記事を見つけることはできなかった。ただ「発達障害 前頭葉」「中毒 前頭葉」なら沢山の情報がヒットする。両方の情報を取り入れながら、「前頭葉」の働き方を起点に考えれば、実態に近い形でこの仮説を丸めることができそうだと私は思う。

 今はまだ気にしている程度なのでここまでしか言えないが、少なくとも、原因不明の発達障害として捉えるより、中毒の一種として捉えた方が考えやすくなる場面があるだろう。

 引き続きこの件に関しては追っていきたい。今まで発達障害については自分自身のエピソードからの推測を語ってきたが、ようやく発達障害の尻尾をつかんだ気がする。