HyogoKurumi.Scribble

私はこの社会が省略した事柄を言語化している人です。

【後編】いじめは「いじめた方が悪い」だけで終わらせてはいけない理由――貴方はいつまでいじめ被害者を盾にポエムを吐くのか

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※本記事は後編が本編です。ご余裕のある方は前編と中編を読んでから戻ってきてください。

【前編】いじめは「いじめた方が悪い」だけで終わらせてはいけない理由――貴方はいつまでいじめ被害者を盾にポエムを吐くのか

【中編】いじめは「いじめた方が悪い」だけで終わらせてはいけない理由――貴方はいつまでいじめ被害者を盾にポエムを吐くのか

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 前編と中編を通して、私のいじめに関するエピソードを話した。前編のAちゃんは「遊びの悪化」、中編の私の場合は「嫌悪感の悪化がいじめ状況に発展した。私はこの2つのパターンをいじめ現場の典型例だったと考えている。

 いじめる側から昆虫などの異物を食べさせられたとか、何百万も脅し取られたなどの極悪なケースがニュースなどで報じられることもあるが、それ全体を「いじめ」という言葉で一括りにするのは難しい。「いじめ」としての部分や「事件」としての部分は境界線を引いて考えるべきだと私は思う。

 遊びの悪化から形成されたいじめ現場は、当事者たちがいじめ状況であることを認識するだけで沈静化し易い傾向にあると私は考える。楽しいという気持ちは他のことでも代替が利くし、何より遊びのつもりだったのだから、相手が悲しんでいて、自分たちが酷いことをしていると理解すれば続ける理由はない。先生でも誰もいい、一言「やめなよ、いじめだよ」と言えば、それだけで問題の大部分が解決に向かうだろう。実際、私の体験でもその通りになった。

 対して、嫌悪感の悪化から形成されたいじめ現場はそう簡単にはいかない。その人が元凶だから、嫌悪感を刺激する要因が消えない限りその関係性は変わらない。

 本記事でも、この嫌悪感の悪化を中心に話をする。

≪言動がもたらす誘因効果

 自分の言動で相手を楽しませることもあれば、困らせてしまうこともあるだろう。もしかしたら気がつかない内に、相手から変に思われていたり、嫌われたりしているのかもしれないし、それが一部だけではなく、クラスメイトのほとんどからそう思われているのかもしれない。

 人の嫌悪感を逆撫でする言動に対しては、それ相応の反応がとられるものだ。多くは対象を嫌い、関わらないように距離を置くだろう。徹底的に無視をする場合もある。しかし中には怒ったり、相手を困らせようとしたりする人も現れるかもしれない。

 嫌悪感を基とする言動は、仕返しや報復を込めた感情ばかりではなく、その環境における自分に対する他者からの評価が下がらない為にとる場合もある。

 例えば「無視」は、「孤立させてしまえ」という意思としてみれば攻撃的であるが、「友達と思われたくない」という意思としてみれば、防御行動であるいえる。

 つまり「悪いのは相手」であり「必要な行動」という構図だ。故にエスカレートしやすく、それは極めて暴力的だったり嘲笑的だったり、とても卑怯な手段なのかもしれない。

 これらの反応が、一人からではなく複数名から発生していた時、経緯を知らない周囲はその状況と行為だけをみて「いじめだ」と判断しても不思議ではない。その形で事が公になれば、当事者たちは卑劣ないじめ行為をした者共として、何らかのペナルティが下されるだろう。では、経緯を知る者はその判決に、納得するだろうか?

  全ては相手の言動に対する反応である。いじめについて考える時は、これを念頭におかなければいけない。いじめとは「いじめ」を第一起点として急に始まる事柄ではなく、特定の条件を満たす言動に周囲が誘発された末に形成される状況なのだ。

≪いじめかな?と思ったら試すこと

 いじめかな?と思った時は、最優先でいじめ状況を沈静化させる方法を考えよう。

 大事なことなのでもう一度いう。最優先で、いじめ状況を沈静化させるのだ。

 いじめた奴が悪いとか、相手を殺す方法とか、学校に行きたくないとか、そんなことを考えている余裕はない。いじめ状況は病気の様に日に日に悪化していく。それが日常の光景として定着してしまったらかなり最悪。沈静化が一日遅れる度に、解決の難易度が上がっていくと考えよう。

 いじめ状況を沈静化させる上でお勧めしたい方法が「自分の言動を封じる」ということだ。つまり「一言も喋らない、何もしない」ということ。休み時間は教室から出て図書室に行く、廊下を散歩するなどしてできるだけ姿を消そう。教室にいるなら一言も喋らない、何もしない、静かに読書をしたり教科書を読んだりする。

 これが有効である理由は前の項で解説した通り、いじめ行為は特定の条件を満たす言動に誘発されて起こるのだから、誘発の基を断てば何もされなくなる、という理屈である。

 実際、私は中編のエピソードの後、この方法を思いついて実際に試した。そして予想通り、見事に何もされなくなったのだ。

 私は確信した。私がいじめだと思っていた行為の多くは、私の言動に対する反応であり、やはり自分の言動に嫌悪感を逆撫でする何かが潜んでいたのだと。その現実を受け入れることは大変だったが、日常が平穏になったことで、今後の生き方を考える余裕を得ることができた。

 それから私は普通を意識するようになり、それは何年もかかったわけだが、その後、日常がいじめ状況にまで陥ったことは一度もない。いじめを解決したのである。

 で、もし何もしていないのにいじめ行為が収まらないようなら、それはそれで深刻ではあるが、対処フローは絞り込まれるだろう。先生に言えばいいのだ。「何もしていないのに、こんなことをされる。図書室に行っても追いかけてくるし、教室で静かにしていても嫌がらせをしてくる」と、堂々と主張すればいい。「解決するまで学校には来ません。早くなんとかしてくださいね」と、学校側に問題を丸投げして、あとは家でパズドラでもしながらふんぞり返っていれば良い。

 どれだけ貴方にいじめられる要因があったとしても、何もしていないのに攻撃されるべき理由はないし、いじめ状況に耐えながら登校する理由など1mmもないのだ。

 先生に言うことには勇気がいるだろうけど、いじめ状況をどういう形で解消したいか、そのストーリーは自分で作ることができるということだ。それがわかるだけでも精神的負担は大きく解消されるだろう。相手に気を使って我慢してあげるのも手段の一つである。相手にしなければ飽きてそのうちやめるかもしれない。

 長々と話したが、自分の言動を封じ、一言も喋らない、何もしないというスタイルをとり、いじめ状況の仕組みを暴くことで、状況をここまで手中に収められるだけではなく、精神的余裕をつくることができるというわけだ。

 私の予想だが、いまいじめを受けていると認識している学生のほとんどがこれを試すだけで何もされなくなるだろう。悪魔人間からいじめられている人生ではなく、実は誰からも相手にされていない日常と向き合おう。それは多くのいじめられっ子が乗り越えなければならない現実だと、私は主張する。

≪いじめはなくならない

 人が人のことをどう思おうが、それはその人の勝手であり自由なのだ。嫌いな芸能人が映っていたからテレビのチャンネルを変えることも自由だし、ネットの世界でも、気に入らない人のことをブロックするのも自由である。それはお互いが心地よく過ごす為に必要な行動であり、人と人との間に壁を作ることは、不特定多数が共存する社会に求められるシステムなのだ。

  いじめはそんな現実が悪化した時に形成される現場である。つまり、いじめの土台となる状況はどこにでも整っているということだ。いじめを無くすということはその土台を無くすということと同義であり、考えなくともそれは不可能で、非現実的であることがわかるだろう。

≪いじめは「いじめた方が悪い」だけで終わらせてはいけない

 いじめ行為は悪いことだし、相手がなんであれ、やってはいけないことだ。

 だが、いじめ状況とは、いじめ行為をしている側の意思だけで形成されるものではない。何の理由もなくアイツいじめようと思って、実際に実行する奴がいれば話は別だが、今も誰かをいじめている人は、どこにでもいるただの人間である。

 学級会などでいじめ行為を禁じたとしても、いじめられた側の原因を特定しなければ、また嫌われるかもしれない、それが悪化すれば、またいじめ状況に陥るかもしれないいじめられた側の誘因要素がそのままであればいじめ状況は必ず再現するのだ。再現しなくとも、周囲は我慢を強いられるのだから、その負担はいじめ以外の形で表れると、こう考えよう。

 実際に私は中学二年生の時も、中学一年生の時と同じ状態になった。それは私の言動が変わらなかったからだ。小学生の時にいじめたAちゃんも、中学三年生になってもウザイ子扱いされていた。それはもしかしたら私と同じように、非定型的要因がそのままだったせいだと推理できる。

 自分の行く先々で同じ問題が起きてもよいという人は、いじめられる原因の考察を放棄して、そのまま生きればよい。もちろん、そんな奴を助けたいと思う者はいない。十年後あたりには、人間関係が上手く築けないことを理由にひきこもりとなり、周囲からは「働け」と罵られる人生が待っているだろう。

 いじめられたことによる精神的苦痛は考慮されるべきだが、 生活環境の質の低さについては自業自得である。それは自分の意思と選択なのだから。

≪貴方はいつまでいじめ被害者を盾にポエムを吐くのか

 いじめは悪だという言葉は必要だが、いじめられた原因に目を向けず、それしか声に出さないということは、私に言わせればそれは、とても無責任な言葉だ。前項でも言った通り、対象の誘因言動がそのままなら、次の環境でもまた変な子だと思われたり、嫌われたりするかもしれない。となれば、またいじめ状況に発展してもおかしくはない。

 いじめられた被害者側の救済を望むなら、いじめた側をどうするかだけではなく、いじめられた側に潜んでいるかもしれない原因にも目を向けること、これを当たり前にしなければいけないのだ。

 しかし未だ「いじめられる側にも原因がある」という意見には反発が多い。「原因」というと、どうしても「悪い」というニュアンスが強まるので、私は「要因の一部」という表現を使うことがあるのだが、どう言い換えても、どんな言い方をされている言葉でもその類の反発は来る。

 まぁ無理もないと思う。中学生の頃の私も、自分はいじめられていると思っていた。何よりもいじめる側が裁かれることを望んだ。これは文化的意識として根付いている無意識のフローチャートだと私は考える。私も、自分に潜む原因を意識するようになるまで、およそ一年と半年もかかった。

 その後は、ただひたすら自分の意識に潜む問題と向き合った。非定型特徴をある程度自制できるようになって、自信をもって乗り越えたと思えるまでに、10年近くかかった。そのエピソードは発達障害の話に繋がるわけだが、ここで私が言いたいのは、いじめられている相手を、自分を、信じるのであれば、「いじめられる理由などない、悪いのは相手」という善悪論としでではなく、問題に立ち向かう意思力を信じてほしいということだ。

 いま社会問題にもなっているニートと学校のいじめ問題は地続きであると考えなければいけない。いじめ被害者として保護されていた存在が、十数年後、社会適応できずにニートと化し、周囲からは社会不適合者という冷たい目で見られているのである。

 いじめ問題の時に、その将来を察することはできなかったのだろうか? と私は考える。被害者=何も問題のない存在、という先入観は捨てるべきだ。

 勿論、社会適応という点で問題を抱えるのはいじめられた側だけではない。いじめた側もそこは同じである。だからいじめがおきた時は、いじめた側、いじめられた側、双方を平等に扱い、いじめ状況にまで発展した経緯を整理する観点が求められるのである。

 

 「いじめは悪だ」と、そう唱えるだけならただのポエムである。それだって、いじめられている人がいなければ言う機会すらなく、その後ろから、自分で考えたかっこいいいじめ悪論を決め台詞っぽく言っている。自覚できていないだけで、正義を唱える自分の満悦の為に、いじめられている子を盾にしているのである。

 本当は、そんなつもりではなかったはずだ。

 

 この記事を読んでくれた人は今後、いじめは悪いことだという時は、この記事の話を思い出してほしい。いじめられた被害者を盾に、ポエムを言おうとしていないだろうか。いじめ問題の解決と、いじめられた側の救済を望んでいるだろうか。いじめられている側が、その言葉を望んでいるだろうか、と。

 自分がいじめられていると認識していた時の私の願いは、「早くこの地獄が終わってほしい」「その為ならなんでもする」「解決方法を教えてほしい」だった。いじめた側の裁き方など、正直、どうでもよかった。

≪アンケートにご協力くださいm(_ _)m

 読了ありがとうございました。最後に、この記事に対するアンケートを取ろうと思う。関心のある人はぜひ参加し、そうではない人も、シェアなどをして広めてほしいです。よろしく願いします。

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