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人は、言葉からは逃げられない。

【読んではいけない記事】発達障害は中毒状態や禁断症状として考えると丸めやすい【自己責任で】

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 本記事は読んではいけない記事です。

 貴方が今の意識のままで人生を歩んでいきたいと思うのであれば、読まないでください。

 自己責任でお読みください。

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 さて、ちょっと前にこういう記事を書いた。

(時間のある方は先に読んでね)

 要約するとあれがダメこれがダメと念じて強いることで生じるカリギュラ現象」(押すなと書かれたスイッチをみて逆に押したくなるあの心理現象)が、逆に機能不全を起こしやすい感覚のエラーを形成してしまい、それがケアレスミスや意思疏通難を多発させた末、その生き辛い境遇が人を慢性的な中毒状態に陥らせているのでは、それが発達障害と呼んでいる状態なのではという感づきを、自身のエピソードを絡めて書いた記事なのだが、掲載後も発達障害×中毒という観点で考え続けていた。

 で、今回また同じテーマで記事を書くことにした。この話、底が深すぎだ。考えれば考えるほど、これまで発達障害と呼んでいたものの見方がかわっていった。

 ケアレスミスやコミュニケーション難、衝動性や習得難など、発達障害の症状としてよく見聞きする特徴にお悩みの方も、どうかこの話に付き合ってほしい。

不安が中毒的感覚を形成する

 なぜ発達障害×中毒なのか、まずそう思えたきっかけの話をしよう。

 昨年2月のある日の午後、私はもう二度と行かないと決めたスロットに行ってしまった。誓いを破ったのは何度目だろうかと思いつつ私はお金を投入した。ただこの日はいつもと違い、二万円ほどという少ない投資で店を出ることができた。それでも、帰ったら正直に嫁に話して謝らなきゃと思いつつ車を走らせている時に、ふと思ったのだ。

「なんで今、打ちたいという気持ちがないんだ?」と。

 いつもならATMからもお金を引き出して、5万円以上は遊ばないと気が済まないのに、そんな自分がたったの2万円程度遊んだだけで、満足できるわけがない。店からでた後も、打ちたくて打ちたくてたまらないはずなのだ。

 これは強烈な違和感だった。何かおかしいと思った。私はすぐに、自分が何か重大な勘違いをしていると直感で理解した。

 そしてわかったことが、スロットを打ちたくなる気持ちは、やめたいと念じる意識の中でつくられていたということだった。

 私はいつも、スロットを打ちに行ってしまう事の不安に悩まされていた。ちょっと出かけるだけで、また自分が店に入ってしまうのではないかということに怯え、パチンコ店が視界に入るだけで、生活費はちゃんと計算して管理しているのに、「お金がない! 増やさなきゃ!」という衝動に駆られていた。

 そんな意識に負けないように、「絶対に行かない!」という気持ちをいつも強く念じていた。

 つまり、私が向き合っていたのは、ギャンブルの中毒性ではなく、パチスロに行ってはいけないという気持ちや、もう二度といかないぞ!という自分自身に強いていた意識の方あり、すなわり、パチスロに行きたくなる中毒性はその自分の意識の中で生み出し続けていたということである。パチスロはとっくの昔に、やめていたのだ。

 この気づきから一年と半年が経った。一度もパチンコ店に行ってないし、禁断症状に悩まされることもなかった。スイッチを切り替えたかのように、打ちに行きたいという衝動がピタリと止まったのである。

 

 この間、私はパチスロの記憶を他所に、あることについて考え続けていた。

 それが発達障害のことである。ここからが本題。

「ダメ」という意識がエラーを起こす

 「行ってはいけない、打ってはいけない」と自分に念じて強いる意識が、逆にパチスロを打ちたくなってしまう中毒的な意識を作り上げてしまった。それはとてもエラーの多い感覚で、仕事で疲れているのに打ちに行く時だけは元気が湧いたり、打っていることを考えただけで妙に気分がハイになったり、打っている時以外は何も考えられなくなったり、お金があるのに無いと思い込んでしまったりと、様々な症状を引き起こした。

 自分に何かを強いることで、心理面にはこのような現象が起こる。

 ならば、発達障害の方でも何か起きているに違いないと私は思った。

 発達障害の境遇は制約だらけだからだ。

 空気を読み間違えてはいけない、失言をしてはいけない、ケアレスミスをしてはいけない、聞き間違えや聞き洩らしをしてはいけないなどなど、言い出せばきりがない。「✕✕はダメだ、〇〇でなければいけない、その為にはどうすれば」と、延々自問自答を繰り返してきた。それも中学生の頃から20年もの間、自分を教育するように念じ続けてきた。

 努力不足だ、甘えるな等と、恣意的につけられるレッテルはどこでも言われてきが、それらは信用に値せず、当てにしたり頼りにしたりすることができない言葉だった。その言葉を受け入れて、その通りにしたくても、実際に起きていることではなかったから、その言葉に対応した行動をとる事が不可能だったのだ。

 だから、この境遇は自分だけがわかっている現実であり、故に、自分の意識くらいしか信じられるものがなかったわけで、「〇〇しなければ~」と意識し続けることに抵抗はなく、むしろ現状維持や処世術として必要な営みであると考えてきた。気を抜くと同じミスや失敗を繰り返してしまうからである。自分の意識をノイローゼのように受け止めたこともあったが、その心配以上に日常の維持が優先だから、深く掘り下げて追及することはなかった。

 このように長い歳月をかけて、発達障害特徴を起こさないよう意識し続けてきた為に、パチスロ中毒のようなエラーだらけの感覚、自分たちが発達障害と呼んでいる特徴が根付いていったのではないか。発達障害特徴を無くそうとする為の意識が、余計に発達障害特徴を上塗りするというループが起きていたのではないかと、そうイメージすることが容易くできてしまったのだ。

中毒状態と発達障害は似ている

 発達障害特徴として語られること、例えばケアレスミスやコミュニケーション難、物事の習得難を思い浮かべてほしい。「発達障害という謎の障害を抱えて苦しんでいる人」という姿が、今までのイメージだ。

 ではこれを、「本人無自覚のまま謎の中毒状態に陥っている人」というイメージで思い浮かべてほしい。中毒症にかかっているなら、とにかく日常的に疲労困憊しているはずである。疲れているからなんでも流れで済ませてしまうようになり、意識や感覚が細かいことを捉え損ねてしまう頻度が増え、恐らく普段からケアレスミスが絶えないだろう。

 気分や感情の浮き沈みが不自然だったり、会話の理解に難があるイメージも持つことができる。脳の覚醒状態も不安定となり、夜は眠れない朝は眠いといった地獄のリズムが自分の普段の状態になろうだろう。

 自分の好きな話ばかりしてしまうことはまさに中毒的で、無自覚の内にこの状態に陥ったとすれば、著しい関心の偏りが起きてしまっても不思議ではない。

 お金の使い方にも影響がでる。好きになったものを集める収集癖はまだいいとしても、生活費管理ができなくなることが深刻だろう。「考えて使う」ということが極めて困難になるからだ。

 後先考えずに、思ったことがすぐに口から出てしまったり、すぐにやろうと思ってしまう特徴も、発達障害衝動性の強さという見方が主流だが、中毒状態である為に生じた禁断症状としてみることもできる。中毒者は常に不安の渦中にいる。だから「あれをしなきゃ、あれをしよう」と突発的に思うものだ。そこには何の考えも計画性もないのだが、自分は冷静なつもりだから念じるように強く思う。そして不安であるが故に、何かと理由を付けては周囲を誘って巻き込んでいく。厄介なことに、不安が原動力となった行動であることを本人は自覚していない。

 

 医学的ではなく当事者視点の主張が基準だが、このように、発達障害あるあるの症状と、中毒状態あるあるの症状は、とても良く似ていると指摘できる。

 ただ、ここで一つ疑問がある。

 念じて強い続けることで、発達障害特徴が上塗りされるということ、ここまでを実態に沿った適当なイメージだとしよう。

 では、そう意識する原因となった「元々の発達障害特徴」は、どこで習得してしまったのだろうか?

教育が発達障害の要因になる

 人は正解を知ったと同時に不正解の場合も想定するものだし、どちらかといえば不正解に対するイメージの方が、広くて厚みをもつ場合の方が多いように思う。

 強くダメとは思わなくても、不正解を選択してしまうことは避けたいと思うものだ。故に人は無意識の内にも「これはダメだ」と意識のどこかで思い込みながら生きている生き物と言える。

 子供は、親や学校から教育を受けて育っていく。その営みの中で、気づかない内に感覚のエラーが脳に根付いていくと、そう考えることはおかしいだろうか?

 私はおかしくないと思う。

 発達障害は先天性の障害だと言われているが、私は、生まれ育った環境のせいではないかと常々思ってきたし、言い切るが、そう主張する当事者は多いのだ。

 ダメと意識することで、機能不全を起こしやすい感覚が形成されるとすれば、人間は誰しもが大なり小なりの感覚のエラー、つまりこの話で言うところの発達障害特徴を抱えていると言えるだろう。発達障害特徴については「そんなのは、誰にでもあることだ」と、障害視することに否定的な人もいるが、これでその感想についても説明がつく。言葉が表現しきれていないが、その感想は間違っていない。

 ただ、その人が思っている以上のことが起きているということ。

 そう、問題はこのエラーが「大」となってしまう場合である。社会の中で適応不全を起こすまでの、極端な発達障害誰もが抱えてしまうわけではない。

 環境Aでは普通の人と扱われ、環境Bでは発達障害だと思われてしまったといった、仕事や人間関係などの相性問題によるケースは省くとして、大きな感覚のエラーを抱えてしまう経緯や条件について考えてみよう。 

 

 真っ先に思い当たったのが、虐待といった機能不全環境である。仮にその暴言罵声や暴力行為が一瞬のことであっても、その後で子供は自分に念じて強い続けるだろう。「〇〇をしちゃいけない、親のいうことをきかなければいけない」と、延々と念じ続けるのだ。それはまさに感覚のエラーが形成されやすい境遇と言えないだろうか。ちなみに、機能不全環境が基と言われている「アダルトチルドレン」という精神疾患の症状は、発達障害とよく似ている。

 学校でいじめを受けた場合もそれらと類似した境遇であると言える。否応なしに抱いてしまう強い不安が日常の中で植え付けらてしまうし、それが長期化しやすい。何もされないことを願うのと同時に、復讐心でやり返してやろうとも考えてしまうだろう。その意識の中には「ダメだ」がたくさんあるはずだ。

 そういう暴力中心の虐待ではなくても、著しく偏った育成環境であるなら、それも同等の心理現象が起きると考えられる。例えば、過度に勉学を強いることがそうだ。子供が「自分は勉強しなくちゃいけない、勉強をしないことはよくないのだ」と念じて強いるようになったらもうアウトだろう。そんな精神状態では勉強してても。せいぜい記憶するだけで精一杯。念願叶って試験に合格できたとしても、自分の意識にかけ続けた負担の反動が必ず表れる。それをうまく解消できないと、意識が壊れてしまうだろう。

 ここで再認識しなければならないのは、本項でも最初に述べた「正解を知ることで不正解も意識する」ということ。感覚のエラーが形成される上で、暴言罵声や暴力、命令ありきの環境は、子供が自らの意思で強いる意識を植え付けやすいというだけであって、必須ではない。逆に、そのような環境でも、何かを念じたり強いたりしなければ、感覚のエラーは起きないだろう。

 つまり、何も強いない「優しく教える教育」であっても、相手が「こうでなくちゃいけないんだ」と強いるように意識してしまったら、結局それは乱暴な教育により強いられたも同然の境遇であるということだ。

 これで、親の教育の仕方で発達障害特徴を抱える説にも当てを付けることができた。

発達障害は、中毒状態や禁断症状として考えると丸めやすい

 発達障害は生まれつきの先天性の障害だとされているが、これは医学上の解釈であって、発達障害あるあるとされる症状を抱えている人は大勢いる。まだ診断を受けていない隠れ発達障害を含めれば、一クラスに何人もいるというのが現状の見方である。私の知人の大学生は自分のクラスは半分くらいが発達障害の診断を受けている」とさえ言っている。 

 そんな感じで今の日本は発達障害者がどんどん増えているわけだが、いま発達障害の診断を受けている人、または、発達障害ではないかと疑っている人の何割かは、この記事に書いた、中毒状態の方に当てはまるのではないかと私は考えている。

 つまりこれは、後天性の発達障害のことである。

 この社会には、親や学校で受けた教育の影響で、脳に著しい感覚エラーが定着してしまった人があちこちにいて、その人たちは先天性と考えられている発達障害のような症状を抱えている、という話だ。まぁ今後この界隈は、「なにを発達障害と呼ぶべきか」という課題と向き合うこととなるだろう。

 

 本記事はあくまでも個人の感想の話なのだが、私はこの発達障害×中毒」という仮説をとても重要視している。 

 私は過去に何度か勤め先で暴走をしてしまったことがある。簡単な確認や整理をするだけの超軽作業だったはずなのだが、元々の説明通りにはできなかった。それはやり方に対する検討や、説明の内容が不足していたことが原因で、仕事の進め方について管理者と再確認をしなければならなかったのだが、「できないのは自分のせいだ、自分のやり方が悪いんだ」と強く思い込んでしまった。そして一人、延々と試行錯誤をし続けたのだ。やればやるほど発見と進展があり、「あと少しだ、もうちょっとでできるぞ」と思いながら黙々と検証を続けた。

 その結果、その日一日が無駄になった。確認は全く進んでおらず、そればかりか、資料は元に戻せないほど、ぐちゃぐちゃになってしまった。やっている途中で「どうすればいいのかわからなくなってしまった」とか「説明の通りにできない」とか、なんでもいいから理由をつけて、手を止めて相談していればよかったのに、それができなかった。

 これと同じことがパチスロでも起きていたのだ。この時の、冷静ではなく合理的に考えることができない精神状態に陥っていた自分が、「もうやめなきゃ」と思いながらやめられず、スロットに延々メダルを突っ込む自分の姿と被るのだ。

 

 この、自分の暴走を防止する方法がずっとわからなかった。暴走状態になってしまったら、自分に対するあらゆるコマンドを受け付けなくなってしまう。何をどう意識しても全ての回答が「あと少しだ、もうちょっとだ、次でできる」になってしまうのだ。自分の意思では止まらなくなってしまう。

 原因はわからない、けどだからといって業務を拒否することはできないから、また自分が暴走してしまうんじゃないかと、そんな不安を抱えながら仕事をしていた。

 でも、中毒状態によるエラーだということがわかってから、これの心配をする必要がなくなったのだ。「あ、やばい、わからない」と思えたらすぐに手を止めればいい。こう書くと当たり前のようだが、この気づきに至るまで、全くできなかったのだ。

 今ならできる。自信をもって「すみません、わからなくなりました」と言える。だってそこでまた「ああしてみよう、こうしてみよう」と思っちゃうのは、試行錯誤ではなく、ただの中毒なんだから、やり続ける理由はない。

 

 ここまでわかったとほぼ同時に、この暴走状態に陥る経緯も特定できた。

 人間関係を良好に保つ為には、些細な齟齬を気にしないことが重要だ。コミュニケーションの主な手段となる会話でも、ちょっとやそっとの認識の違いなら適当に話を合わせるとか、相手の話を言葉通りに受け取らないといった工夫が当り前で、多くの場合、それらは意識せずとも自然体の内で実行されるものだと思う。

 私もそこは意識している。意識しないと上手く実行できないから、結構意識している。私は知能検査の結果、人よりも著しく単語などの知識が乏しいことがわかっている。意識しないと質問ばかりになってしまうのだ。

 この、相手よりも知らないことが多いという関係性が、教わることの頻度の多さから、普通に話しているだけでも上下関係を形成してしまいやすい。

 それはまぁいいのだが、会話の性質によっては、そのやりとりが私にとって「毒」となる。

 例として、ある「A」に関する話をしている時、私はAについては知っているが、相手がどういう風にAを認識しているのか、そこが曖昧で気になることが時があり、間違って理解しないようにとそれについて質問をすると、「私がAのことを知らない人」と思われて話が始まってしまうことが多々あるのだ。

 自分はあれこれ知らないという印象がついている人なのでそれは仕方がないし、私もよほど重要なことでなければそのまま話を聞く。結果的に一番聞きたいことが一番聞きたかった形で聞けなかったことになるわけだが、物事が進行すればそれで良いと私は思う。

 ただ、そうして流していくということは、自分自身の振る舞い方を周囲の評価に合わせることとなるわけだ。その営みが繰り返された末に、自分の本心からはかけ離れた振る舞いを自らの意思と選択によって行うことが日常となり、それは平気なつもりでも自分にそのキャラクターを強いることに他ならない。感覚のエラーが起きやすい境遇を、自ら形成してしまっていたのである。

 これを回避するには、些細な齟齬も含めてその場で指摘し、議論や検討をして認識のズレを解消をする必要がある。自分に何かを強いる意識を作らない為には、できるだけ、理解と納得の上にあるストレスフリーな状況に自分を置くことが望ましい。

 ただそれは、社会の常識からみて非現実的な話だと言わざるを得ない。いちいちそんなことをしていたら仕事もなにも、先に進まなくなってしまう。言葉のピンハネが起きていたとしても、「相手はたぶんこう言っている」程度の理解度が得られれば良しとして、不足している部分は自分の能力で埋めて完遂する。そこに我慢があっても、なるべく意識しないよう娯楽などで消化する。

 これが一般的社会人に求められる基本能力であり、日常のサイクルなのだが、障害特徴と指摘されるほど常識力や知識が乏しい私は、一人では完遂まで辿り着けないことの方が多い。だから、そういう私が業務を進めていくには、普段から周囲にたくさんの質問をしなければいけないわけだが、社会の常識や相手との関係性、質問だらけになってしまうことの不自然さが否応なしに気になって、その手段をとることができなかった。そこで悪循環が起きていた。「質問しても良いライン」を(自分にとっての高いところに設定してしまったのだ。だから何も聞けないまま自分一人で試行錯誤する状況に陥っていたのである。

 

 これが今まで勤め先で起こしてきた暴走、その状態に至るまでの経緯である。私の暴走は、自分の言葉と周囲の言葉、そうして形成された関係性により、自らの意思で選択していた境遇によって、否応なしに引き起こされていたのである。

元凶は、言葉だった

 人同士の関係性や日常の営みというものは、わりとすぐに固まってしまう癖に、一度固まってしまうと、なかなか変えられないものだ。

 

 子供や若者は、学校に行って勉強を学ぶ。

 大人たちは仕事に行って、社会を学ぶ。

 親は子を育て、子は親から学び、育っていく。

 

 私たちが生きる社会、その毎日は学びの繰り返しである。その日常を当たり前のものとして維持している原動力は、言葉の力に他ならない。

 その社会の営みの中で、私たちは今日も言葉に強いられて、狂ってゆく。

 だから、自分の意思で生きていくことが、大切なのだ。

 

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