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人は、言葉からは逃れられない。

【前編】無理解の尻尾をつかむーー「発展障害」に陥った日本を救う唯一の方法

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 今回は障害者の界隈でも使われることのある「無理解」という言葉と、この社会の生き辛さ、その解明に通じる記事を書きます。

 障害界隈での「無理解」という言葉は、障害当事者の特徴やその事情について、理解する意識をもたないまま生きている人や、無自覚のまま当事者の心身に負担を感じさせるようなことをする人を一括して指す時に使われます。特に精神や発達障害の方でよく見聞きできる用語です。

 障害者のことを自分より劣る存在としてしか見られない、そういう不幸な心の人であるという意図や、敵対心を込めて使われることが多いかと思います。

 これまで私は「自分のこと」に関する記事を書いてきましたが、今回は「社会全体に関する話」であり、今までに語ってきた発達障害や非定型特徴に関する全ての記事が繋がる、集大成と言える記事です。

 私はたぶん、この記事を書く為にこのブログを始めたんだと思います。

 ぜひぜひ、ぜひ最後まで、自己責任でお読みください。

 

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発達障害は中毒症の二次障害

 まずは前置きです。……で、いきなり当ブログの熱心な読者以外は置いてきぼりな話から入るわけですが、昨今話題の発達障害、その代表的な症状であるケアレスミスやコミュ障といった特徴は、中毒症状からなる二次障害である可能性が指摘できるのです。

 これは過去に、深刻なスロット中毒に陥ったことがある私の考えている仮説でして、いま発達障害の診断を受けている人やグレーゾーンの人の何割かは、これに当てはまると思っています。

※本記事だけでも内容を理解することができます。本記事と関連する過去記事は後編の最後にリンクを引きます

スロット中毒の克服

 およそ9年前、私が25歳の時、仕事とプライベートで毎日12時間ほどパチスロを打ちまくっていた時期がありました。その末に、深刻なスロット中毒状態に陥ってしまい、私はパチスロが止められなくなっていました。生活費や何かの支払いのお金も巻き込んで、大切なお金を次々とパチンコ店のシュレッダーに突っ込んでいたのです。

 止めようと思っても止められず、止めれたと思ってもまた打ちにいってしまう、そんな不安定な意識に私はおよそ8年もの間、苦しめらました。

 それがある日の気づきを境に、ピタリと止めることができました。

 33歳の2月、禁スロ四ヵ月目のある日、私はまたパチンコ店に入ってしまいました。その時は付近にトイレがなく、客の振りをしてお店のトイレを使おうと目論んだわけです。

 用を足した後、私はすみやかに出口へと向かったわけですが、ほんの一瞬、好きだったシリーズの最新台が目に留まってしまい、滑らかな軌道修正を経て椅子へ着陸してしまいました。

 いつものパターンなら、そこから5万円かそれ以上打ち込まないともう止めることができません。でも、その時は違いました。2万と数千円使ったところで、「3万円超えてしまったらお終いだ……っ!」と強く思うことができました。今思えば、四ヵ月間の禁スロの間に死守できた唯一の理性だったのかもしれません。

 そう思った私はすぐに遊技を止め、お店から出ることが出来ました。そして、家に向かって帰ることができました。

 その帰路の途中、私は強烈な違和感を覚えました。パチンコ店に戻りたいという気持ちが、全くなかったのです。ただただ、少ない投資の内に店から出られたことに安堵していました。帰宅したら嫁に正直に謝ろうと、落ち着いて考えることができていました。

 そんな自分の精神状況を察し、これはおかしいと思いました。自分がパチスロ中毒なら、いまお店に戻りたくてたまらないはずだからです。

 

 私は、自分が今までどんな心境でパチスロ中毒と向き合ってきたのかを振り返ることにしました。そして、止められなかった原因を特定することができました。

 私は毎日延々と、パチスロを止めなくちゃいけない、お店に行ってはいけない、お金を貯めなくちゃいけないと、念じ続けながら生きていました。

 それが元凶だったのです。

 人はダメと念じることで、逆にやりたくなってしまう心理現象が働く生き物なんです。意識がエラーを起こすのです。 

 つまり、私は自分自身の脳に、パチスロが余計に止められなくなる意識を念じ続けていたのです。

 パチスロを止める為に、そう念じることに疑いはありませんでした。しかしそれが結局、パチスロに囚われ続けた原因そのものだったのです。

 この気づきと同時に、自分はもうとっくの昔にパチスロを止めていたことにも気づくことができました。

 同時に、ここまでの気づきを得た瞬間、私は完全にパチスロ中毒を克服できました。実際、この時からもうすぐ一年と八ヵ月が経ちますが、お店には一度も打ちに行っていません。更に、ただの一度も禁断症状に悩まされることもなく、平穏に暮らしています。

 もう、スロットを打っていた時の記憶が薄れているくらいです。

 

 このエピソードの後、しばらくしてから私はこの体験談をまとめてブログで連載していました。

 その最終話を書いていた時にふと、ある推測が頭の中に出来上がりました。

 ダメだと念じることで意識にエラーが生じる……自分の思い通りになってくれない脳に悩まされる……これはまるで発達障害者の境遇ではないかと、そう思ったのです。

 その瞬間、私は言語認識の記事以来のパラダイム転換を得ることができました。そして、”私の発達障害”の原因がついにわかったのです。

言葉が中毒を生んでいる

 私は「言葉と意識の中毒」という、単純なワードからこの仮説について考えてみることにしましょう。

 障害当事者たちは、真面目にやっていないとか、ふざけているとか、実態とは異なるレッテルを貼られる言葉の暴力を受けながらも、社会の中で必死になって生きています。普通に近づかなくてはいけないとか、普通ではない自分の方がおかしいといった意識を、念じ続けることになります。

 そんな発達障害者や精神障害者の苦しみを一言で言うと、社会の言葉に苦しめられていると言えるわけです。その精神状況は、私がスロット中毒に陥っていた境遇と似ていると言えるのです。

 乱暴な教育では、人は育ちません。虐待は論外として、例えそこに愛が込められていようとも、何かを強要することで、人はそれに対し中毒的になっていくのです。それは育つとは言いません。

 実際にこの障害界隈には、両親の教育や、他人からの酷い言葉のせいで追い込まれ、その末に精神障害を抱えたという人が普通にいます。生きていく為に努力しなければいけないと、自分の意思で自分を追い込みすぎてしまった人もいます。

 周囲の言葉のせいで精神を病み、さらに自分の意識で病みを深めていく。精神を病んだ第一の原因は周囲の言葉でも、その後は自分の意思と言葉で障害特徴を悪化させているという見方ができるわけです。

 さらに、精神障害者の多くがケアレスミスやコミュ障といった発達障害特徴を併発し、発達障害者はその境遇から二次障害として更なる精神障害を抱え込む。

 言葉と意識に対して中毒的になってしまうと、それだけここまでの地獄が形成されるわけです。条件さえ整えば、虐待やハラスメント的な非定型環境ではなく、一般的な生活環境の中でもこの現象は起こると言えます。つまり、丁寧に優しく教えても、「これが正しいんだ、こうじゃなきゃダメなんだ」という風に、思考回路が中毒的アルゴリズムになってしまったら同じことだからです。

 これが多くの当事者が陥っている境遇です。

 

 しかし、この仮説には疑問が残ります。言葉が人を中毒的にし、障害に陥らせる力を持っているならば、人間は全員が言葉と意識の中毒者であり、発達障害者であると言えてしまうわけです。何故なら、みんな言葉を頼って生きているからです。実際、人は誰しもが発達障害特徴を抱えているという考え方があります。精神や発達障害の話を聞いて、「それは誰にでもあることだ」という考え方は未だ根強いです。

 でもその実態は、やはり障害という診断を下されるくらいですから、障害当事者たちは他の人とは大きく異なるわけです。

 この世の中には、障害者と認識できる人と、そうではない人がいる。

 ならば言葉による中毒説は、不完全だと指摘せざるを得ません。

全ての日本人は言葉中毒に侵されている

 障害者云々という方向にもっていくと、前項のような袋小路にはまってしまいます。が、その手前、「言葉の中毒」という部分をもっと掘り下げると、どうしてこんなにも無理解な人が普通に生きているのか、日本社会は狂っているのか、そういった社会の全容にまで届く話へと発展するのです。

 では、ここまでに揃えたパーツを整理してみましょう。 

  1. まず「日本」があります。
  2. 次に人間、つまり「国民」がいます。
  3. 国民は「言葉」を使って意思疎通をしています。
  4. その言葉で「社会」が構築されています。
  5. 社会の中で国民は「言葉中毒」に陥っています。 
  6. その言葉中毒に陥った人の中に、発達障害と認識されている特徴を抱えた人たちと、そういう特徴を抱えていない「普通の人々」がいます。 

  で、この話が先に進まない理由は、「5.社会の中で国民は「言葉中毒」に陥っています」という、奇抜な部分がひっかかるからです。

 言葉の中毒で発達障害状態に陥る経緯はイメージできても、同じ影響を受けているはずの「普通の人々」はどうなんだ? 普通だろ?という疑問が残るわけですね。

 というわけで、ここからは、この「普通の人々」に的を絞って考えてみましょう。

普通の人は、普通なのか?

 普通の人の側にいる人たちの中には、発達障害精神障害を抱えているわけでもなく、何かの中毒者でもないんだけど、おかしな人っていますよね。

 例えば会社の経営者や活動家、著名人などを想像してください。彼らの中には診断は受けてないけど発達障害者っぽいと言われている個性的な人たちがいますよね。で、周囲からは自分の才能を伸ばした人とか、障害者の中でも勝ち組とか、好き勝手に言われています。自分で発達障害の自覚があると自称している人もいますね。

 ここで彼らのことを先ほどから言っている中毒、「何らかの中毒状態に陥っている人」という観点で考えてみると、当てはまる部分がみえてくるのです。

 貴方の身近にはいつも仕事のことで頭が一杯な人っていませんか? 会社の熱血上司とかそんな感じじゃないですか。あと、クリエイターの世界はもっとわかりやすいですね。一言、「才能」という言葉だけでは収まりきらない、その創作に対して中毒的になっている人もいますよね。

 中毒的であるというのは、良くも悪くも、狂っているような人のことです。

 これで、奇抜な部分がひっかかるからと書いた、同じ影響を受けているはずの「普通の人々」に対する部分が解けました。普通の人々の中にも、中毒的な人たちはフツ~にいると言えるわけです。

 ここまでのイメージを持つことができれば、きっと、ここから先の話にもついていけるでしょう。  

  • 国民全員が言葉の中毒に陥っている
  • 一部の国民は発達障害と認識されている
  • 障害特徴をもたない普通の人たちがいる
  • 普通の人たちの中には発達障害のような人たちがいる

  全員が中毒であるという規格でくくれるなら、その違いは中毒度の強弱で分けることができます。単純に、発達障害者やそれっぽい人、個性が目立ちすぎる人たちのことは、中毒度が強い人、そうではない人は中毒度が弱い人、という風に分けて話を進めます。

 私たちの住んでいるこの社会は、中毒の強弱で住み分けがされているわけではありません。頭がいい人も悪い人もかっこいい人も不細工な人もお金持ちも貧乏な人も、みんな同じ仕組みの中で生きています。家庭とか、勤め先とか、所属するコミュニティを中心に生活し、他人とすれ違いながら人生を営んでいます。

 その環境で、精神障害者発達障害者の多くのが生き辛い境遇に陥っています。むろん、苦しい思いをしているのは障害者ばかりではありません。両親からの虐待や家庭内DVや、職場でのハラスメントや理不尽な扱いなど、心や体に暴力を受けたり、経済的に追い込まれたりしながら生きている人は大勢いるわけです。

 このような苦しみの多くが社会問題として認知されていますが、一向に解決される気配がありません。

 そもそもこのような不幸は、一体どのようにして社会の中で形成されるのでしょうか。

無理解は中毒が原因だった

 多くの暴力や負担は、立場の強い者から弱い者へ与えられる傾向にあります。そこにはいつも中毒の影がチラついているのです。

 例えば学校で不良グループがおとなしいオタクな生徒をおもちゃにしていじめる。これは自分たちが楽しむことに中毒的であると指摘できます。会社では仕事熱心な上司が部下の失態を過剰に罵ったり罵倒する。これは仕事に対して中毒的だと言えますね。学校の教師が生徒に厳しく当たりすぎて、生徒側が精神的苦痛を負うこともあります。これも教育に中毒的であるという見方ができますね。

 家庭で妻に暴力を振るう夫はどうでしょうか。その人はストレス発散ではなく自分が正しいと思っていませんか?

 発達障害は見えない障害と言われていますが、見えないではなく「隠せない」と言った方が実態に沿っています。それと同じで、「中毒」も隠せない障害という見方ができます。まず間違いなく、言葉や行動、物事の判断基準に表れており、その特徴がその人や周囲の人の日常を左右しているのです。

 中毒者は、自分のことしか考えられず、何をしてしまっても、自分を肯定する傾向にあります。また、このような周囲に苦労を与える人は、特定の考え方に固執し、人の気持ちを考えることができていない精神状態にあるという共通点があります。

 つまりこの社会は、一個の家庭から社会全体に至るまで、中毒度の強い人間の影響によって変化していると見ることができるわけです。実際、家であれ会社であれ、声の大きい人の言葉が基準になっているはずです。

 

 ここまでに話した中毒者の特徴を整理しましょう。 

  • 中毒者は自分に対して肯定的である。
  • 中毒者は人の気持ちを考えられない。
  • 中毒者は自分のその特徴を隠せない。

 このイメージに最も適合する存在が、もう本記事に登場していますね。

 そう、最初で言った「無理解な人」です。

 ようやくここで登場です( ゚Д゚ノノ"☆パチパチ

 

「……いや、ちょっと待った!(;´д`) 私の知ってる中毒の人は、自分が中毒であることにすごく苦しんでいるよ!(>_<) 周りの人のことを、いつも考えているよ!(゚□゚)」

 と、言いたくなった人がいると思います。

 

 そうですねぇ。

 よぉくわかります。

 私もだいぶ、中毒には苦しめられましたもん。

 お金のことで妻や友人に多大な迷惑をかけたことを、本当に今も後悔していますし、それはパチンコ店に通っていた時でも、同じ気持ちを抱えていました。

 でもね、中毒状態でありながら、真逆の気持ちを持つこともありました。 

 それはスロットで勝って儲かっている時です。

 その状態では、自分の生き方が正しいと思い、今日の出来事や危なかった時の武勇伝をオープンにしたくなり、みんなもやればいいと思っちゃうんです。

 

 話を無理解に戻します。

 無理解な人とは、職場や家庭にいる「普通の人たち」の一部を指しています。主に普通に仕事ができて普通に生活を送っている、障害者の境遇とは無縁な人たちのことです。

 通常の中毒は、負けるなり体を壊すなりでそれが維持できなくなり、その苦しみを味わうことで自分がおかしいことを自覚しますが、普通に生きている無理解な人は自覚する機会がありません。なぜなら、生活が安定している、職場で評価されている、経済的に余裕がある、マイホームや車があるなど、多くの社会的ステータスがその意識や感覚を支えているからです。勝ち続けるプロのギャンブラーと同等の状態です。自分の考えを改めたり顧みる理由がないのです。

 これが、無理解な人が周囲に迷惑をかけ、中毒的であるにも関わらず、その状態を自覚しないまま日常を営み続けられる理由です。

 この話をさらに拡大していきます。

無理解が受け入れられている理由

 無理解な人といっても所詮は一部の一個の人間です。相手にしなければいいですし、そんな人はどこだって受け入れてもらえません。

 そのはずなのですが、多くの当事者が無理解の人から受ける苦しみを訴え続けており、逃げ場がない、居場所がないという状態に陥っています。

 これは、どういうわけでしょう? まるで社会全体が無理解だといわんばかりの状態です。実際、障害界隈には「定型社会」という言葉があります。「定型」とは「定型発達」という言葉の略称で、障害や何らかの疾患特徴を持たない人と言う意味で、平たく言うと「普通の人」ということです。それに「社会」という言葉をくっつけて「定型社会」です。

 つまり、この社会はなぜか、無理解な人が普通の人として、受け入れられているわけです。

 こうして考えてみると、とてもおかしな話だと思いませんか。どうして職場でハラスメントをする人が平気で出社できるのでしょう。DV夫の待つ家に、妻は帰宅してしまうのでしょう。そんなことが繰り返される日常、障害者が生き辛い思いをしている性質の社会を、これがいつもの日常だとして許容しているわけです。

 ちょっと引っ張りましたが、その理由は簡単です。「無理解な人」が、逆らえない人に多いからです。つまり、会社の経営者や職場の上司、家庭の決済者、という立場が上になる存在に、無理解な人が多いということです。

 これは偶然の偏りではなく、必然的な理由があるのです。

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