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言葉は嘘をつきません

発達障害の原因と治し方について語る「私は発達障害を治した」――中毒や依存と考えることで道は開ける

 発達障害の症状は治せない、という認識が広く定着しているが、私はその定説を懐疑的に受け止めている。障害特徴としてよく挙げられるケアレスミスやコミュニケーション難について、私自身は改善できたと自負しているからだ。

 社会性の低さや物事の習得困難といった特徴は残っているものの、それらは障害特徴ではなく人生の結果だと考えている。つまり私は「自分の発達障害を治した」と認識している。

 今回の記事では、この発達障害の原因と治し方に関する考え方を語ろうと思う。

 特に、言葉や知能に遅れはなく、見た目も喋り方も健常者だが、不注意や多動、コミュ障や習得困難といった発達障害あるあるの症状に悩まされているという人は、診断の有無問わずぜひ読んでほしい。

  発達障害は未だ先天性説が根強く浸透している。虐待や機能不全家族の環境で育てられた場合でも、発達障害と同様の症状が表れることが確認されているが、それは発達障害とは言わないらしい。でも、同様の症状が子供の頃から続いてるぽかったら発達障害の診断を受けることになるのが当事者の現実である。

 私は当事者の何割かは今回の記事で語るケースに当てはまると考えている。

発達障害に関する一般論

 まず「精神障害の診断と統計マニュアル」という、アメリカ精神医学会が出版している本に記されている、「注意欠如・多動性障害」(ADHD)と「自閉症スペクトラム」(ASD)に関する診断基準を見てみよう。

DSM-5における注意欠如・多動性障害(ADHD:Attention Deficit Hyperactivity Disorder)の診断基準

A1:以下の不注意症状が6つ(17歳以上では5つ)以上あり、6ヶ月以上にわたって持続している。
a.細やかな注意ができず、ケアレスミスをしやすい。
b.注意を持続することが困難。
c.上の空や注意散漫で、話をきちんと聞けないように見える。
d.指示に従えず、宿題などの課題が果たせない。
e.課題や活動を整理することができない。
f.精神的努力の持続が必要な課題を嫌う。
g.課題や活動に必要なものを忘れがちである。
h.外部からの刺激で注意散漫となりやすい。
i.日々の活動を忘れがちである。

A2:以下の多動性/衝動性の症状が6つ(17歳以上では5つ)以上あり、6ヶ月以上にわたって持続している。
a.着席中に、手足をもじもじしたり、そわそわした動きをする。
b.着席が期待されている場面で離席する。
c.不適切な状況で走り回ったりよじ登ったりする。
d.静かに遊んだり余暇を過ごすことができない。
e.衝動に駆られて突き動かされるような感じがして、じっとしていることができない。
f.しゃべりすぎる。
g.質問が終わる前にうっかり答え始める。
h.順番待ちが苦手である。
i.他の人の邪魔をしたり、割り込んだりする。

アメリカ精神医学会の診断基準第5版(DSM-Ⅴ)による注意欠如・多動症/注意欠如・多動性障害の診断基準 / えじそんくらぶはAD/HDを持つ人たち、そして共に悩む家族・教師を応援します - NPO法人えじそんくらぶ

http://www.e-club.jp/adhd/adhd_basic/7999.html

DSM-5における自閉症スペクトラムASD:Autism Spectrum Disorder)の診断基準

以下のA,B,C,Dを満たしていること。

A:社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)
1.社会的・情緒的な相互関係の障害。
2.他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。
3.年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B:限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)
1.常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。
2.同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。
3.集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。
4.感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C:症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D:症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。

自閉症スペクトラムDSM-5の診断基準)

http://esdiscovery.jp/griffin/psycho01/dsm5_09.html

 上記の診断基準は堅苦しい文言だが、実際に当事者が主張する症状の通りである。症状の表れ方には個人差があるが、細かいことを除けば概ね的を得ていると言えよう。

 どれだけ気を付けていても不注意が頻発したり、思い付きで言葉が出てしまったりと、普通にしているつもりなのに、なぜだかわからないが普通のことができないのである。

 現代医学ではこれらの症状を「注意欠陥多動性障害」「自閉症スペクトラム」「学習障害」とざっくり3種に分類し、総称して「発達障害」と呼んでいる。

 この発達障害の症状だが、心身の調子次第では誰にでも起きることであり、医学に詳しくない人でも、こういう症状は他の病気や障害でも抱えることがイメージできるだろう。だが当事者の主張によると、これは子供の頃からで、自分は健康体で、いつもこの状態で、症状がこれらに限定されているわけで、となれば、たしかにこういう症状ばかりを引き起こす先天性の障害や何らかの疾患の存在を疑いたくもなる。実際、発達障害の当事者界隈では先天性説が未だに定説である。しかし、当事者の中にはこれらの症状を抱えながらも、幼少期に虐待を受けていたとか、家が機能不全家族だったとか、自身の育成環境に問題があったことを訴える者も少なくない。そういう話を聞くと、本当に先天性なのだろうか、育った環境とこの症状は関係ないのだろうかという疑問が否応なしに浮かんでくる。

 発達障害に関する一般論で考えていくと、だいたいここらで手詰まりとなる。症状の治療は諦め、周囲に理解と配慮と支援を求めながら生きていくしか道はない。

発達障害の症状を中毒や依存という観点で考える

 ここからは私の自論を基準に話を進めていく。

 前項で引用した発達障害の診断基準に戻り、その内容を「中毒や依存の状態」(以下、中毒依存)という観点で読み直してみてほしい。何らかの中毒依存に陥り、禁断症状に悩み苦しんでいる人の姿が連想できないだろうか? 実際に、自分または家族に、煙草やお酒、ギャンブルなどで中毒依存に陥った人の様子を知っているなら連想しやすいと思う。全くイメージできないとなると、ここから先を読んでも内容が理解できないかもしれない。でも、少しでもイメージできたならぜひ読み進めてほしい。

 中毒依存に陥っている人は、いつも同じことばかりを考えるし、自分のことしかみえていない。変にテンション高いし、集中力は散漫になるし、社会性に対する意識だって雑になる。その上、いつも酷く疲れている。なのに、自分の意思ではやめられない。症状を隠せないのだ。

 そう、不注意や多動、集中困難、関心の偏りといった発達障害の代表的症状の数々は、中毒依存の状態ととてもよく似ているのだ。

 ただ私たちのよく知っている中毒依存との違いは、知らない内に中毒依存に陥ったということである。そして何らかの禁断症状に悩み苦しんでいるその状態を、私たちは「発達障害」と呼んでいるのだ。

 では、一般的な大人の発達障害者が作られるまでの経緯を説明しよう。

幼少期から小学生の間に無自覚のまま中毒依存に陥る

 中毒依存に陥った原因を特定する事は難しい。なぜなら、言葉や食べ物、娯楽など、日常の中で関わることはなんでも中毒依存の対象となり得るからだ。

 まず「言葉」については、「カリギュラ効果」という心理現象を例に考えてみてほしい。「押してはいけないスイッチ」という注意書きをみて、逆に押したくなる気持ちが大きくなるあれだ。

カリギュラ効果
カリギュラ効果カリギュラこうか)とは、禁止されるほどやってみたくなる心理現象のことである[1]。一例としては、「お前達は見るな」と情報の閲覧を禁止されると、むしろかえって見たくなるなどの心理が挙げられる[2]。
ローマ帝国の皇帝カリグラをモデルにした1980年のアメリカ・イタリア合作映画『カリギュラ』が語源で、過激な内容のため、ボストンなどの一部地域で公開禁止になったことで、かえって世間の話題を惹いたことにちなむ[3][4]。ちなみにアメリカには「ボストンでは禁止」 (Banned in Boston) という慣用句がある。
この効果は、広告宣伝やテレビ番組でも利用されている。例えば、テレビ番組で、「ピー」などの効果音を付けて発言を聞こえなくしたり、モザイク処理をかけて映像の一部を見えなくすることにより、いっそう視聴者の興味をかき立てるなどである。
カリギュラ効果は学術的な用語ではないものの、その内容の面白みからいくつかのビジネス本において紹介されると言った事例がある[1][5][6]。

カリギュラ効果 - Wikipedia

 これを育成環境に置き換えると、親から「〇〇をしてはいけない」「〇〇をしなければいけない」など、躾を受ける過程で言葉や意識の中毒依存に陥ることが考えられる。虐待のような強要される形で叩き込まれれば尚更だろう。

 食べ物については中毒性や依存性のある成分が既に確認されているからイメージしやすいかと思う。チョコレート、炭酸飲料など子供が大好きなお菓子類は特に多い。子供がお菓子を食べたがるのは一般的な子供の姿と思われているが、中毒依存になりやすい体質になると考えることもできる。

 娯楽についてはテレビゲームがわかりやすいだろう。光と音は科学的にも人が依存に陥りやすい対象であることがわかっていて、特にパチンコ業界では日々研究が進められている。テレビやパソコンから発せられる光や音、繁華街のネオンだって同じ効果を持っているのだ。

 私たちの日常は、人を中毒依存に引き込むものに囲まれていると言っても過言ではない。大人は自分の意思で自制することができるし、中毒依存に陥らない為という意識はなくとも、なんでも偏らないようほどほどにするべきであることを生きていく間に学習する。しかし、子供はどうだろうか。まだ何も知らない子供はこういうことを知る由もなく、関心を反らす感覚を習得していない内は、ただただ好きになったことを我慢するしかないだろう。

 何より、子供は育つ環境を選べない。言葉も、食べ物も、育てられ方も、ある程度育つまでは、何もかも親のやり方に左右されるのだ。

 最初に言ったが、大事なことだからもう一度言う。中毒依存に陥った原因を特定する事は難しいのだ。なぜなら、言葉や食べ物、娯楽など、日常の中で関わることはなんでも中毒依存の対象となり得るからだ。仮に家庭環境が理想的であっても、家の外にいる時にどんな体験をするかはわからない。育て方は関係ないのだ。優しすぎる家庭であれば、学校が雑で怖い環境に感じることもあるだろうし、家でお菓子やゲームを制限していても、友達の家で食べまくったり遊びまくったりしているかもしれない。

 こうしてほとんどの子供が無自覚の内に、日常にあるものを対象とした何らかの中毒依存に陥っていく。これがいま世界中で起きていることなのだ。その中でも極端なケースが、将来的に発達障害の診断基準にあるような症状を抱えると考えよう。

 私たちの知っている子供の姿とは、本当に正常な状態なのだろうか。今一度考え直す必要があると私は思っている。

中学生から社会に出るまでの間に、中毒依存の症状が自分の人格として定着する

 中学生になると、この無自覚中毒に陥った人の言動はかなり目立つことになる。周囲は少しずつ心も体も大人びていき、オタクであれ不良であれ社会性を意識するようになるわけだが、どうしてかその子だけはいつまでも小学生のように好き勝手に振る舞うからだ。

 不良が反抗心から暴れるのとは質が違う。授業中、休み時間、部活、文化祭、いつでもクラスメイトや先生も巻き込んで、誰かを怒らせたり悲しませたりして、なにもかも滅茶苦茶にしてしまうのだ。そして周りから嫌われていじめられたりして孤立するのが発達障害児のよくあるパターンである。

 人間関係はぐちゃぐちゃ。授業もよく理解できない。普通にしてるだけなのに何もかも上手くいかない。それでも、ゲームをしたり漫画を読んだりすることはできるのだ。

 このような場合、今の時代は発達障害の可能性が疑われるわけだが、幼少期から知らないうちに何かの中毒依存に陥っていたと考えたほうが説明がつく。

 育成過程で、言葉や食べ物、娯楽のどれか、またはすべてが、脳の状態を慢性的な中毒依存の状態に陥らせたのだ。その元凶はもう家庭の過去の姿で、この時になってから原因を探してももう見つけられないかもしれない。「原因不明」の出来上がりである。

 いつもギャンブルの話ばかりするギャンブル中毒の人をイメージしてほしい。その人は周りが見えていない、いつも頭が疲れているから不注意が多い、テンションが高くて思い付きをすぐに口走るコミュ障、そんな人ではないだろうか。その様子は、クラスで好き勝手に振る舞い、注意されても聞く耳をもたず、周りのクラスメイトからうざがられる子と同じである。

そのまま大人になって発達障害の診断を受ける

 今の時代なら学生の内に発達障害の診察を勧められるだろうが、親の意向次第では診察を受けないまま大人になることとなる。

 しかし中学生の頃から人間関係が上手く築けず、勉強もできないとなると社会適応は絶望的である。職場に恵まれればそのまま生きているかもしれないが、多くは職場でお荷物となり、周囲をありえないほど困らせる。結局、障害者雇用で働く道を真剣に考えるだろう。そして親の反対を押し切り、自分の意思で診察を受けにいく。障害者雇用で働くには障害者手帳が必要だからだ。

 この切り替えが遅れると、その生き辛さから鬱や統合失調などの精神疾患を抱えることとなる。それだってすぐに自覚できればいいが、気づけないまま過ごすと思考回路がいよいよ壊れ始め、大真面目におかしなことを考えるようになる。社会的には犯罪とされていることを真剣に考えるようになるだろう。いまなんとか日常を過ごせている当事者でも、何かが間違っていればそうなっていたかもしれないと、自分の危なさを自覚できる人は少なくないはずだ。 

 ここまでが発達障害的人生のテンプレである。

発達障害は一次から三次障害で構成されてると考える

 脳のどこかの障害部位が、ケアレスミスや関心の偏りといった診断基準にある症状を生んでいる、という考え方は忘れよう。

 まず何らかの中毒依存に陥る。これが一次障害である。その上で、不注意や多動の症状を抱える。これが二次障害である。その症状を抱えたまま生きることで、知識や社会性を習得する機会をロストする。これが三次障害である。

 わかりやすいよう図を用意した。

 これを基に治療の方針を考えてみよう。

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中毒依存の観点から考える発達障害の治し方

 幼少期から小学生の間はどうしても親に頼らなければならず、中毒依存に陥るとした一次障害の段階は避けにくいことがわかる。躾は必要だし、テレビゲームやお菓子だって、やりすぎない食べすぎないように制限すること自体がカリギュラ効果の心理現象を遠因とする中毒依存に陥らせる場合もあるわけで、もうここは運を天に任せるしかないように思う。

 中毒依存に陥っている状態を前提とした上で、ある程度自分の意思で活動できる中学生以上を対象とした治療法を考えることにする。

 その治療の基準は「社会適応できること」とする。

 性格や能力がどうであれ、周囲の人間と円滑な意思疎通ができ、必要に応じて能力の習得や情報収集ができ、常識やルールを理解してそれに沿う、これだけできればいいのである。

 したがって、「二次障害とした不注意や多動、コミュ障といったを症状なるべく早く克服し、三次障害とした機会ロストによる社会性及び習得力の低下を最小限に抑えること」、これが現実的に考えられる治療の方針と言えよう。

 

 ではここからは「中学一年生で発達障害の診断を受けたたかし君」という設定で話を続ける。

 とりあえず、不注意についてはこれ。

 コミュ障についてはこれ。

 たかし君はこの2つの克服法を試したとする。

 で、感覚の調教法のお陰で、落ち着いて授業が受けられるようになったとしよう。加えて、毎日続けた日記のお陰で、コミュニケ―ションが円滑にとれるようになったとしよう。

 上記の克服法はだいたい一ヵ月も続ければ効果が得られることを想定している。実際に一ヵ月でそれだけの改善が得られたとすれば十分だろう。授業の内容に集中できて、クラスメイトと意思疎通ができるなら、経験の機会ロストは最小限に抑えられたと言える。

 よって、たかし君は社会に適応できる条件を満たすことができたと評価できる。あとはたかし君次第である。

 

 では「30歳で発達障害の診断を受けたタケシさん」という設定で考えてみる。

 この場合、同じように一ヵ月で不注意とコミュ障が治ったとしても、それだけで30歳になるまでの機会ロストによる社会性の低さまで治せるわけではない。

 その時からでも心機一転して社会性の獲得に取り組むことはできるが、周りの人だって同じ時、同じ社会の中で生きていくのである。開いてしまった差は埋めらない、同じ水準にはなれないと考えた方が現実的だと私は考える。できるようになったことを整理して、その能力に見合った仕事に就くのがいいだろう。

 この2つの分析から、発達障害特徴を克服し、できるだけ普通の人と同じ水準になることを目標とするならば、社会出る前、学生の内に克服することが要と言える。

私は発達障害を治した、が……

 私が自身の異常性を自覚したのは中学二年生の時だった。それから普通を意識するようにしたのだが、どうしても自分の特徴は隠せなかった発達障害の特徴を克服したと自信を持っていえるようになったのは成人後だった。25歳の時に決行した放浪の歩き旅の経験をきっかけに、障害特徴が目立たなくなったのだ。

 ケアレスミスは人並みになったし、言葉の認識が最適化されたお陰で、周りの人との意思疎通だって円滑にできるようになった。

 それでも人並みの仕事はできなかった。それもそのはずで、人よりも知ってる単語が少ない特徴はそのままだし、常識力や社会性の無さも変わっていなかった。

 それらを習得できる状態は整った、とは言えるが、当時は今こうして書いているほどの分析はできておらず、「できるようになったはずなのに、なぜかできない?」という混乱と向き合うばかりだった。

 その後も私は諦めずに社会の中で生き続けた。その末に、手順が明らかになっている仕事ならできることがわかった。手順通りに操作をして結果を記録するチェックスタッフの仕事や、手順通りに機械を操作したり加工したりする工場の仕事は大きな混乱なく取り組むことができた。

 これも一つの克服の形だろうと私は考えている。放浪旅に出なかったら間違いなく、それすらも満足にできないままだっただろう。

 

 今の時代の常識観では、まだ「発達障害は治せる」と聞いても、ピンと来ない人が多いだろうと思う。それは「障害だから治せない、治せないから障害」という思考停止に陥っているからだ。まずは「障害」という大きな括りではなく、ケアレスミスだけ、不注意だけと、症状を部分的にみる観点をもってほしい。そうすれば考えやすくなるだろう。

 私の場合は遅かったわけだが、学生の内に多動や不注意、コミュ障が治せれば、普通に授業を受けたりクラスメイトと楽しくお喋りしたりする余裕ができるはずだ。

 そこまで自分の状態を改善できれば、自分の意思で考えて生きている実感だって得ることができるだろう。 

 

 発達障害は治せる。

 そう言える時代は、もうすぐそこまで来ていると私は考えている。

 

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