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人は、言葉からは逃れられない。

制作日誌No.55:「会社員」という生き方は「普通」じゃなかった

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 空のとびかたプロジェクトの映画とパンフレットが完成して、今日はリアル試写会の時に配布するリーフレットと劇場用ページを作っていた。それも完成したから、これで活動に関する全ての制作を終えたということだ。あとは試写会と、サイトの更新や告知をコツコツやることか。

 あぁもう大きなやることが終わったんだな、という実感。中学生の頃の自分が心に誓った「普通の人になる」という目標への取り組みも、これで終わらせていいと思った。

 

 私がやったのは映画制作活動であり、まぁ、誰もが当り前にやることではないという点からみれば、普通の人がやることではないと言える。普通ではないことをして、「普通の人になる」という目標に決着をつけた気になれているのは、私が考えていた普通が、普通ではないことを今は理解しているからだ。

 

 中学生の頃の自分にとって「普通の人」とは、「朝起きてスーツを着て電車に乗って会社で働く人」のことだった。その生活に続く通り道にこれといった難易度はなく、せいぜい高校や大学の入学試験や、会社へ入社する時の試験くらいで、「何も考えずに列に並ぶ」くらいの認識だった。

 悪人にならず生きていれば自然とそうなる感じ。

 世の中の半数かそれ以上、ほとんどの人がそういう人生を歩む。

 日本社会はそのようにできていて、それ以外の人生を送りたい人は、他人とは違う努力をしなければいけないと、そんな風に思っていた。

 

 中学二年生の頃、私はいじめをきっかけに自分の非定型特徴を自覚した。とにかく自分はあらゆる面で能力が低くて、全体的に知的障害者手前の状態なんだろうと思い、一度は自殺を見据えた絶望状態に陥った。

 けど、そこからまた人生を頑張ろうと思うようになる。

 そんで私は、普通の人を目指そうと思った。大金持ちだったり、何かのプロみたいなすごい人生を目指そうだなんて思える状態ではなく、何も考えずに生きていれば自然と落ち着いてしまうような平凡な人生でさえ自分は危うく、それが今の自分が死に物狂いで頑張ってやっと手に入るラインだ、と思ったのだ。

 その平凡な人生というのが、最初に言った「朝起きてスーツを着て電車に乗って会社で働く人」のことだったのだ。

 

 誰にそう教わったわけでもなく、ただ漠然と、なんとなくそう思っていた。周囲の大人たちの言葉の影響だったと思う。と言っても、いつどの一言がそう思わせたかというきっかけがあったわけでもないのだけれど、ともかく「大人になったら大きな会社に入ること」が理想であり、学校の勉強はその為に頑張るものであり、頑張りが足りなかったり運に見放された人は、地元の小さな会社や、会社員以外の仕事に就くというのが社会に対する私のイメージだった。

 そのイメージが、もしかしたら自分だけの思い込みなんじゃないかという疑惑を持ったこともあったけど、仮にそうだとしても、朝起きて会社に行く生活を送っている人が多いことは、朝起きて学校に通う生活を送っていれば自然と理解する社会の現実なわけで、大きくズレた認識だとも思わなかった。

 

 それからの人生の中で、私は何度か朝起きてスーツを着て会社に行く生活を叶えたことがあった。でもその生活を長く続けることはできなかった。どこでも意思疎通の面で深刻なズレが起きて、仕事にならない状態に陥ったからだ。

 それは自分の非定型特徴である「アスペルガー障害」が原因で起きたことだと思っていた。

 二十代の頃はそう思っていたけど、三十代になってからその考えは大きく変わった。

 

 20歳の頃、非定型特徴克服の為に始めた日記は、今では小説を書いたり映画を制作したりという創作活動に進化した。

 自分がしていることを人に話す時は、要所で説明を加えた言葉を作る必要がある。創作活動というのは誰もがやっていることではないし、自分の創作の感覚は自分だけのものだからだ。

 これは創作をしている人間なら誰もが理解していることだ。もし、ネットで話題の絵師が「こんな絵誰にでも描ける」と思っていたら? その人が会社の上司で、ある日当り前のように自分と同じくらいの絵を用意するよう部下に指示をしてきたら?

 そんなことあったら困るだろうし、ありえないと言える出来事だろう。そう言えるのも、その創作に関する感覚や技術が、自分だけの積み重ねで会得できたものであることを、皆が理解しているからだ。

 

 ただ、私が社会の中で陥った境遇はまさにそれだった。

 敬語や電話応対、仕事の進め方やビジネスマナー、どれもこれもが私にとっては特別な感覚を要をするもので、美術館に飾ってあるような絵画を当り前のように描かされているような難易度を感じてた。それについていけない自分を障害だと思い込んでいたのだ。

 

 今はこう思う。本当は、会社員同士でも同じ認識が必要だったのだと。

 創作をしている者が、たとえ創作家同士でも、自分の感覚や技術を自分だけのものと認識するように、会社員同士でも、自分は特別であり、人と共有する上ではちゃんと説明が必要であると。

 それがわかっていれば、少なくとも「わからない自分、できない自分が異常」だと思い込むことはなかったと思う。

 非定型的な境遇で育った私にとっては、わからなくて当り前だったのだ。ましてや言語認識のことなのだから、言い換えるなら、「英語を習得していないのに英語が理解できなくて悩んでいたようなもの」だったのだ。

 そんな馬鹿げた結論を得るまでに、20年近くも要してしまった。

 

 いま学生の人に聞きたい。周りの子と同じように授業を受けている自分の立場をみて、やっていることは周りと同じでも、自分だけの感覚や技術が育っているという認識は持てているか?

 クラスで一人だけ変なアニメのイラストを黙々と描いている子は、その絵の描き方を説明できる。どんな道具を使って、どこからペンをおいて、どんな力加減で線を引くのか、まるで先生みたいに説明できる。その子は自分の絵が自分にしか描けないことを知っているからだ。

 それと同じように、自分が昨日授業で学んだり、家で自習して頭に詰め込んだことを説明できるか?

 受けた授業は周りと同じでも、理解の形は自分だけのものだと思えているか?

 

 できてないなら、できるようになってほしい。そういう感覚が足らなかったと、これを読んだすぐあとから、意識するようになってほしい。

 それができなければ、言葉で人を苦しめる社会人になってしまっているのに、気が付かないまま生きることになるだろう。