HyogoKurumi.Scribble

言葉は嘘をつきません

社会の外側の外側から見えるもの――自分の目で自分の目をみる方法とは

 朝の出勤中、電車の中でツイッターを見ていると、鬱病で死にたい、というツイートが目に止まった。その人のエピソードのことはなにも知らないが、私はその時、強烈な既視感を覚えてしまった。スロットがやめられなくて、何度も死にたいと思ったあの日々だ。

 

 今更思えば、あの希死念慮に包まれた精神状態のことは、鬱病と認識していいのではないだろうか。「やめたくてもやめられない、負けてしまうのに、お金がなくなるのに」という状況あっての心境だったから、鬱病とか、そういう疾患的観点で考えたことはなかったのだが、鬱病だと認識してはいけない理由はない。中毒状態が私を鬱病にまで追い込んだと思ってもいいだろう。

 

 では、鬱病の前に中毒状態がある」と考えることはできないだろうか。これがありなら、いま鬱病に苦しんでいる人も、何かの中毒状態にあると指摘できるわけだ。

 

 真っ先に思いついたのが、この社会のことだった。

 私たちが当り前だと思っている社会の日常や、普通の人だと認識している相手のことは、もしかしたら中毒的であると言えないだろうか。

 

 例え話として、ギャンブル中毒であることが当たり前の社会に、ギャンブル中毒になれなかった自分という存在を立てて考えてみる。

 さて、周囲からみて自分という存在はどう映るだろうか。(主にギャンブルのことで)わかって当たり前のことがわからない、できて当たり前のことが上手くできない、やって当たり前のことをしない、話があわない、など、困った存在に映るのではないだろうか。

 その生き辛い社会の中で心身共に疲弊していく私は、なんとか社会に適応しようと、(主にギャンブルのことで)ああしなければこうしなければと、自分の意識に対して中毒的になっていくのではないだろうか。そして自分の意思とは無関係に多発するケアレスミスや意思疎通難、習得困難が、余計に私を苦しめるだろう。その状態は今の実際の社会でいうところの、発達障害に相当するのかもしれない。

 そうして、普通がわからない、できない自分のことを、何かの障害だと思い込みながら生きていくだろう。

 

 そもそもが中毒者に囲まれた社会の中で生きているからこそ起きた悲劇だが、ギャンブル中毒であることが「普通、平均」の基準となっている社会の中では、自分も周囲も、その実態を認識することは極めて困難だろう。

 それは鏡を使わずに、自分の目を自分の目でみようとしていることなのだから。

 

 それにしても、定型発達という存在は、なぜあんなにも思考が固執しているのだろうか。

 

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