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言葉は嘘をつきません

私が「発達障害や精神障害なんてない」という考え方をオススメしない理由


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 精神障害なんて、ない。
 発達障害なんて、ない。

 この界隈にいると時折そういう言葉を耳にする。障害の診断を受けている当事者自身がそう言っていることもあるし、当事者の家族や支援者側が言っていることもある。

 その障害の何がないと言いたいのか、よくよく考えてみると意図が分かりにくい言い回しなのだが、話の前後から察するに「自分はおかしくない」と言っていることが多いように思う。

 障害についてどう受け止めようとそれは個人の自由だが、私的にこの考え方はオススメしない。人からそう言われた時でも慎重になったほうがいい。

 そう認識してもいい人より、しない方がいい人の方が圧倒的に多いからだ。

 それは「社会性の低さ」をどう捉えるかにかかっている。

 

 本題の前に、私は発達障害の発症原因について、中毒や依存(以下、中毒依存)がその根源にあるのではと考えている。全員かと言われると厳しいが、少なくとも何割かはこのケースに当てはまると私は思っている。

 別に何かの学者という立場で専門的に研究しているわけではないが、自身の過去のエピソードを振り返ると、そうとしか考えられないからだ。詳細は下記の過去記事でも読んでほしい。本記事ではその前提で話を進める。

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発達障害は一次~三次障害で構成されている

 まず、家庭環境や人間関係の影響で、幼少期から何らかの中毒か依存に陥ったとする。ギャンブルやアルコール、煙草などの中毒依存に陥って、その禁断症状に苦しんでいる若者や大人の様子を想像してほしい。子供の時から無自覚の内に、そういう思考回路になってしまったということだ。食べ物や娯楽、言葉などがその原因の候補に挙げられる。

 この中毒依存に陥っている状態が「一次障害」の部分である。

 で、一次障害の症状として、多動や集中困難、偏った意思疎通の特徴がみられるだろう。中毒依存の禁断症状あるあるの状態を連想してみてほしい。それらはこの時代では発達障害という言葉で認識されている特徴ばかりなのである。

 これが「二次障害」である。

 

 ここからがこの話の肝である。無自覚のまま中毒依存に陥り、多動や不注意、関心の偏りなどといった症状を抱えながら生きると、人はある境遇に陥ってしまう。それが経験や機会のロストである。

 そんな思考回路の人が、ましてや子供や学校や家の中でまともに過ごせるわけがない。他のことが気になってばかりで、授業の内容は頭に入らないだろうし、周りを振り回すようにして遊ぶだろう。家の中もぐちゃぐちゃにして、周囲の大人やクラスメイトを疲弊させるのだ。

 このように、一次と二次の障害は「社会性の低さ」という形で表れる。

 私はこれを「三次障害」という位置づけで考えている。

社会性の低さは治せない 

 一次障害は、自分からその原因を離すこと、取り除くことが治療の第一歩と言える。原因さえ特定できればあとは選択の問題だ。しかし、現実的にはどうしようもない部分である。

 子供のうちは両親の生活を頼らなければいけない。その両親の生活に原因があった場合、子供個人の力ではお手上げである。虐待といった目に見える環境であれば第三者からの介入により解決できるかもしれない。ただ、食生活やコミュニケーションなど全てが理想的であっても、子供が何らかの中毒依存に陥るきっかけをゼロにすることはできない。

 治せると言いながら現実はこのように厳しいわけだが、子供の内に一次障害に陥ることを阻止できれば、その先で二次三次障害に陥ることもない。小さなお子さんを持つ親はぜひ、子供と中毒依存の関係について関心をもってほしいと思う。

 

 次の二次障害とした多動や不注意、コミュニケーションや関心の偏りは、トレーニング次第で治すことができる。実際私はそれらの症状を独自の訓練方法で克服したと自負している。

 もちろん簡単ではない。まず、障害だから治せないという考え方が主流である為、調べても情報が乏しいし、自分に合った方法を見つけるには我流で編み努力が求められる。それだって何年もかかるだろう。治すというよりは修行に近い。ただ見返りは大きい。結果次第では、平均以上の能力を得ることも可能だからだ。

 

 三次障害は論点としている「社会性の無さ」である。社会人経験を積めば治せそうだが、これは不可能と言っても過言ではない。

 物心ついた頃から無自覚のまま発達障害特徴に振り回され、発達障害の診断を受けたという、よくあるパターンの発達障害者をイメージしてほしい。年齢は29歳としよう。それから一年間トレーニングを重ねて二次障害の多動や不注意、コミュニケーションを平均レベルまで上げたとしよう。多動もないし不注意もない、会話も普通にできる。

 これなら何も問題なく社会復帰できそうに思えるかもしれないが、そうはいかない。なんせこの人は「29歳まで社会人経験を積んでいない状態」だからである。

三次障害の考え方

 まず治せるパターンの話からしよう。

 29歳まで定型的に生きてきて、人間関係も仕事も平均的だったとする。それまでは社会人経験を積めていた人だ。で、この人が30歳になって、仕事か人間関係かなんやかんやのミスのきっかけに、精神疾患を患ったとする。おまけに発達障害の診断も出たとしよう。向精神薬や治療薬も処方されたとしよう。

 その後、自分は障害者なのかとあれこれ悩み、一年ほど会社を休んだとしよう。そうして30歳になった時、「障害なんてない、自分はおかしくないんだ」という考えに至り、薬も止めて、自信をもって社会復帰したとしよう。

 この人の実年齢は30歳で、社会人としての経験は29歳からの再スタートである。まぁ1年くらいのブランクなら大丈夫だ。こういうケースの人なら、障害なんてないと思って生きても実害には繋がらないだろう。

 

 問題の治せないパターンはこうだ。学生の頃は発達障害特徴のせいで授業はろくに理解できず、クラスメイトとの人間関係だってぐちゃぐちゃ。家の中でも親との会話すらなく、自室の部屋に籠るばかり。そんな日常のまま大学を卒業し、なんとか入社できた会社でもコミュニケーションエラーや仕事のミスが頻発して、仕事らしい仕事はできなかった。

 大人になってから発達障害の診断を受けた人によくいるケースで、これより酷いパターンなんてざらにある。

 学校には通っていたし、仕事にも行った。でも、その場にいないも同然の状態だったのである。周り人の活動に加わっていなかったことが致命的で、周囲の会話の流れについていけないことがしばしば起きるだろう。周りの人にとっても、話が通じない、会話がスムーズにできない人という印象をもたれやすいはずだ。同じ言語でやりとりできるというだけで、一般的な会話の運び方の感覚が未発達なのである。

 この人がこれから社会人経験を積んでも、「実年齢」と「社会人年齢」のバランスが丁度良くなることは絶対にない。その差が著しく開いた関係はそのままであり、精神年齢の偏りだってどうしようもないだろう。何より、他の人だって社会人経験を積んでいくのである。

 平均的な人生を歩んできた普通の人と、同じ条件で日常を歩むことはできないということだ。

 その上で、自分の能力を伸ばすなり活用するなりして、社会の中に自分の生きる道や場所を強引に開拓する方法しかない。それで自立できたとしても、それは治したと言い表せる結果ではないと私は考える。

 治すことは諦めて、自分と相性の良い人や、自分と同じ境遇の人と寄り添うことが平穏な日常への近道だと思う。

まとめ

 中毒依存と発達障害の症状は治せても、社会性の無さは治せない。それは症状ではなく、人生の結果だからである。障害特徴を努力して直しても、結局社会に適応できない当事者が多い理由はここにある。

 この社会性の低さは、障害相当に匹敵すると私は考えている。だから障害なんてない、という考え方はオススメできないのである。しかし、「普通」という部分に「障害」がくっついている、だから「障害」を除去(治す)できれば「普通」になれる、と認識している人も少なくない。それは絶対に違うと私は主張する。

 障害とは、人生なのだ。障害特徴は治せても、障害特徴と共に歩んだ人生、つまり経験は変えられない。人生は変えられないのだ。

 私も子供の頃から今回の記事で話した一次二次、そして三次障害に悩まされた方だが、これまでの職歴の中で問題なくできた仕事は、業務内容が手順化されている仕事だった。そういう仕事なら人よりも高い水準で完遂することができた。

 対して一般的なオフィス業では、会話から業務内容を推測するスキルが求められた。私は認めていないが、多くの人がその推測力を社会性だと認識している。犬は「お手」と言われれば飼い主の手に自分の手を重ねるが、それは「お手」という言葉を人間の様に理解しているわけではない。「お手」という言葉に対する反応の仕方を覚えているに過ぎないのだ。言葉で通じ合えているわけではないのである。

 私に言わせればオフィス業もこれと同じである。不注意や多動、不自然な意思疎通は治したが、この社会性だけはどうしても平均レベルに引き上げることできなかった。その原因は本記事で書いた、経験機会のロストだと私は考えている。お手を教わっていない犬はお手ができない。私の社会性のなさはそれと同じである。

 障害なんてない、と思ってしまうと、こういう肝心なところを見落としてしまう。それはきっと過信に繋がり、思わぬ事故を招くだろう。

 いま発達障害の特徴に悩んでいる人で、生まれつき知的遅れが見られないタイプはこの本記事で書いた「社会性の遅れが治せないタイプ」に属するのではないかと私は思っている。

 

 本記事は障害特徴に挑む上で、治せる治せないの線引きや、言葉の組み立て方を考える上で活用してほしいと思う。自分がいつから発達障害特徴に振り回されてきたか、いつまで平均的な社会人の日常だったかをよく思い出してほしい。

 それを言葉で整理することで、自分にとって歩みやすい道が見えるはずだ。発達障害の人生は過酷で厳しいという印象が根付いているが、経験機会のロストさえ最小限に抑えることができれば、人生の難易度をかなり下げることができるだろう。

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