発達障害は「治せる」と「治せない」、両方の考え方が成立する


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 最近、発達障害を治す、治せないに関する他の人の書き込みを検索して読んでいる。

 

 治せると思う、治せると言い張る、漢方を推奨する、脳の障害、または先天性だから治せない……と、どっちの意見にも具体性のない書き込みばかりがヒットする。

 

 私は「治せる」と考えている。現に自身の発達障害特徴は治したと自負している。しいていうなら、症状に振り回されていた間に習得し損ねた感覚や能力が平均よりも劣っているということか。

 

 治し方はこちらの記事で解説した。これを読んでもらえれば私の言う「治した」が思い込みでないことはわかるだろう。

 


 同時に、「治せない」という考え方も理解できるだろう。

 

 私の主張する「発達障害は治せる論」の大本は、自身で辿り着いた発達障害は依存症説」にあり、その話は「この社会の経済は国民の依存症が支えており、誰もが発達障害のテーブルの上にいる」というスケールで考えている。

 

 発達障害が依存症?と聞いて首をかしげる人も多いだろうが、私の体験や、医療を含む発達障害に関する色んな情報が依存症であることを示唆しているからだ。

 

 ここから先は発達障害が依存症であることを前提とした上での内容なので、時間に余裕のある人は、先に上でリンクを引いた攻略マニュアルの記事を読んでから戻ってきてほしい。

 ちなみにここで言う発達障害の症状の定義は「集中困難、コミュ障、習得困難」と、発達障害でよく挙げられる症状とする。

 

 

 話を続ける。

 

  • この社会は人を依存症に誘引するコンテンツで溢れている。
  • 私たちが発達障害と呼んでいるものは依存症。
  • 依存症は体質として遺伝する。
  • 依存症の人が依存症を生む。

 

 この社会には発達障害を形成する仕組みがあり、社会の中で生きる人は発達障害を抱え、その症状を体質として次の世代にも引き継いでいる、というのが私の社会観だ。

 

 発達障害が世代を超えてループしているのである。

 

 このループから抜け出すには人々が抱える依存症を治すしかない。その方法は単純に言って、「依存から考察できる対象」を日常から遠ざけるしかないだろう。

 

 適切に徹底すれば、発達障害の症状は緩和していくし、予防もできる。

 

 まぁ、これを社会全体の取り組みとして実施することはまず実現しないだろう。

 けど、一個人が自分の意志で勝手にやる分には自由である。

 

 習得できなかった感覚や能力については後から再習得すればいい。攻略マニュアル内にも盛り込んだが、ケアレスミスやコミュ障、習得困難については私が考案した感覚の訓練法がある。

 

 依存を遠ざける+感覚の訓練法、これを実行すれば発達障害の症状からおさらばできるのだ。

 

 

 さて、私は今さっき「発達障害を治す為の考え方とその方法」を話した。

 ここで同時に察知してほしいのが「簡単なことではない」ということだ。

 

 「感覚の訓練法」は家でできるものだが、「依存を遠ざける」ことの難易度が高すぎなのである。

 

 依存として考察できる対象として要警戒となるのが「言葉・食べ物・娯楽」である。

 

 これを遠ざけるとなると、まず人との会話ができなくなるから仕事ができなくなるだろう。食べ物だって酒や嗜好品など依存、中毒性があるものは全部ダメ。娯楽も感情を煽るからダメ。ギャンブルなんてもっての他。

 

 そこまで徹底して治したいか?

 というか、実行できる人がまずいない。

 

 食べ物と娯楽は我慢すればいいとして、仕事が最大の課題となる。一言も喋らなくていい仕事なんてないし、私の言う「言葉の依存」は「聞くだけ」も範囲内だから、人の声が聞こえないところに行かなくちゃいけない。

 

 働かなくても生きられるお金持ちならいいけど、食べ物と娯楽に制限がかかっている以上、お金の使い道も限られる。楽しみの少ない人生が窺える。

 

 「発達障害を治す為に依存を遠ざける」を100%徹底するということは、もはや「自分を社会から遠ざける」ということに他ならないのだ。

 

 「もし発達障害を治せたら社会に適応できるのに」と考えている人はいると思う。私も昔はそうだった! それでも、発達障害を治す道を考え続けた私の出した結論は、「治すことは社会適応を意味しない」である。

 

 この社会は依存症に侵されている。発達障害はその社会の中で起きている二次症状のようなもの、というスケールで私は考えている。

 

 私は「発達障害依存説」に気づいてから、この「実行不可能」という壁と向き合った。そして出した答えが「日常の2~3割は依存でもいい部分をつくる」というものだ。

 

 つまり発達障害と上手く付き合って生きる」という答えだ。

 

 これを噛み砕いて言うと下記のようになる。

 全ての頭に「依存が悪化しないように」をつけて読んでほしい。

 

  • 疲れたら休もう
  • お酒や嗜好品はほどほどに
  • 働きすぎたらダメ
  • 会話も疲れるから長話は休憩をいれよう
  • 娯楽はのめり込んだらダメ
  • お金の使い過ぎにも注意だ
  • 食べ物は成分をよく見て選ぼう

などなど

 

 私の発達障害依存症説を疑わしく思えても、この上に箇条書きした内容はどうだろうか。発達障害関係なしに、健康に良いとされている常識的なことだと思う。

 

 何か言いたいのかと言うと、「発達障害の要因となる依存をある程度妥協して、発達障害と上手く付き合いながら生きる」ということ、それは「普通の人のように生きる」という事なのだ。

 

 ちなみに、発達障害依存説が想定する社会の姿はこんな感じである。

 

  • 発達障害の症状は大なり小なり誰でも抱えるはず
  • 先進国では発達障害者が多いはず(先進国は依存コンテンツが充実し易い)
  • 発達障害の親も発達障害っぽい人が多いはず
  • 発達障害の人は疲れを感じ難いはず
  • 「依存症」と名付けられる病気が多い
  • 実際のことより、感情基準の人が多い
  • 「楽しい」や「やる気」が健康の基準となりやすいはず
  • 発達障害の正体がわからず、人々はそれを「個性」と受け入れるはず
  • 依存度の強い人ほど評価されて出世しやすいはず
  • 社会の「普通」の基準がおかしいはず

 

 発達障害を依存という観点から考えても、当事者たちが人生の中で実感している社会の姿と整合性が取れてしまうのだ。

 

 

 さて。ざっとこんな感じだが、私が発達障害依存説を主張する理由と、発達障害は「治せる」と「治せない」、両方の考え方が成立するという考え方は伝わっただろうか。

 

 治せると言っても、「依存対象を徹底的に遠ざけることで治せる」という意味なのか、「依存をある程度妥協して普通の人感覚で生きる」という意味での「治せる」なのか。

 

 治せないという話だって、「依存対象を徹底的に遠ざけることの難易度の高さ」から「治せない」と言ったのか、「先天性だから治せない」と言ったのか。

 

 発達障害を依存から考察することで、どちらの話も作れてしまうのだ。

 

 今後も治せる治せない論を追う時は、この点を意識しながら向き合いたいと思う。

 

 発信した以上は責任が伴う。質問などあればお気軽に。