発達障害考察ブログ HyogoKurumi.Scribble

言葉は嘘をつきません

あとがき 夜行バスの人々(なろう版)

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あとがき

 将来は物書きになりたい。

 なんでも文章で話せる人になりたい。

 この小説を書いていた頃の私は、自分の将来の道をそんな風に決めていた。

 あとがきでは、この小説を書くことになった経緯や、書いている時に考えていたことや当時の心境、今だからわかることなど、この作品に関わる私のDNAをできるだけ言語化してみようと思う。

 

 発達障害克服の放浪旅のあとの、東京でのケストハウス生活を終えて、パートナーとの同棲生活の費用を貯める為に、親元の実家で生活をしていた時だった。年はたしか、28歳。

 ずっと発達障害的な人生を送ってきたけど、放浪旅のおかげでケアレスミスは改善できたし、人間関係も(親以外とは)良好だった。

 絵師であるパートナーと創作をしながら生きていく為にも、私は言葉や文章の能力をもっと高める必要があった。しかし、学校の勉強にもついていけず、高校も中退で、成人用知能検査でも知識や単語の能力が異常に低かった私は、世の中にあるものを活用することができなかった。だから、「これなら自分にでもできる」という水準のことを突き詰めていくしか道はなかった。

 

 それが、「とにかく書きまくる」だ。

 

 そしてもう一つの目的があった。それが「コミュ障特徴を改善した証」を掴むことだった。後に気づきを得るが、この当時はまだ放浪旅中の日記がコミュ障改善に繋がったことを特定できていなかった。改善の証拠は、コミュ障言動が収まったという自己判定と、東京にいた頃は安定した人間関係を築くことができていた、という記憶だけだった。

 これはこれで十分かもしれないが、もっと不特定多数が納得する証明がほしかった。ケアレスミスは「仕事中にミスをしていないこと」自体が証となるが、コミュニケーションや言動面は人によって判定基準が分かれてしまう。私の思い込みだ、と言われればそれまでだ。

 そこで目を付けたのが「小説を書いて賞をとる」という手段だった。小説で賞を獲れれば、私の言葉が評価されたわけだから、私のつくる言葉や文章には一定の正しさがある証明になる、と考えた。

 

 実家に戻った私は友人のその考えを話した。友人は私の発達障害特徴のことも知っている。そうして教えてもらったのが「小説家になろう」という小説投稿サイトだった。当時、「ログ・ホライズン」というなろう発の商業小説が話題で、友人はその小説を読んでいた。

 その話を聞いた私は「どうせ小説を書くならアクセスが多いところに掲載しよう。読んでくれた人から色んな指摘がもらえるかもしれない」という単純な理由でなろうを選んだ。そももそ私がネットを始めた理由がコミュニケーションの能力向上だったから、ネットに小説を掲載することに抵抗はなかった。

 そして2011年12月29日、夜行バスの人々第一話を掲載した。

 

 私の記憶が間違っていなければ、「夜行バスの人々」は私の五作目の小説だ。東京にいた頃に短い話を練習で三作書いて、その時からネットに掲載していた。四作目は9万文字程度の長編で、某社のライトノベル小説大賞に挑戦した。それは見事に下読み落ちだった。下読み落ちは流石にショックでしばらく何も書けなくなったが、映画やドラマのエキストラ体験などを通して自分の進路を再確認でき、実家に帰った後で再び小説に挑戦した。

 実家は関西にある為、東京と行き来する時はいつも夜行バスを利用した。金がないので毎度格安のバス会社。とにかく乗り心地が最悪で、到着する前に発狂しそうになるくらい辛かった。その辛さのぶつけどころをあれこれ考えている内に、「いつか夜行バスを題材にした小説を書いてやる!」とか頭の悪いことを思うようになった。そんな感情的な動機と、東京での体験と、私の発達障害的人生から根付いた社会観が組み合わさって生まれたのが、本作「夜行バスの人々」である。

 

 では、夜行バスのストーリーを構成している成分を言語化する。

 私の意識には、いつからか「人なんて消えてしまえばいい」という漠然とした願望が潜んでいた。非定型的人生故の、社会に向けている敵意から生じたものだと思う。その思想が悪さをしたことはないし、ファンタジーであることは理解している。 

 それと、私は東京で酷い体験をしている。私の友人であり、私が尊敬していた人であり、私を社員に誘ってくれた先輩が、私の社員研修が終わってすぐ、事故で亡くなったのだ。そして私はブラック上司の下で働くことになった。夢だった「普通の人としての人生」はその上司により阻まれた。私は会社を去る決意をした。

 こういった創作と相性がよさそうな自分のイメージに焦点を当てて、「世にも奇妙な物語」のように、映像化すれば1時間程度で終わりそうなストーリーを考えた。

 サービスエリアで目を覚ますと人がいなくなっていた。事実をすぐに理解して周囲の人よりも一歩二歩先をゆく非定型グループと、困惑しながらも周りと連携をとって現実を追及する定型グループ。

 定型的な人間と、自分のような非定型的な人間。その相容れぬ者同士がパニック環境の中で、互いの思想をぶつけあうストーリー。単純に好奇心がそそられた。書いていて楽しそうだったし、こういうストーリーは誰にでも書けるものではない、と思えた。

 人格や価値観の違いにより生じる人間ドラマが見所となるストーリーならいくらでもあるが、発達障害の概念を背景においた「定型vs非定型×パニック」という設定のストーリーはまだ数が少ないのでは、いやまだ存在してないのでは、と思えて、自分が一作目を生み出すつもりで、熱を込めて書いていた。ただ、当時はまだ発達障害の未診断で、いわゆるグレーゾーンの境遇だった。グレーゾーンのまま生きていく覚悟はできていたが、単純に、未診断者が発達障害を直接題材・言及したストーリーを書くことは憚られた。それを基準にしてしまえば誰しもが何にも書けないわけだが、やはり、発達障害の確定診断が下りていない人が、発達障害の診断が下りている登場人物の姿を書くことはおかしいと思った。だから発達障害の単語は出さず、考え方の部分だけを切り取って小説に取り入れることにした。つまり本当に書きたかった設定は「定型発達vs発達障害者」だったわけだが、この作品はそういう判断があって、「定型vs非定型」という構図で書くことになったのだ。

 自分の判断とはいえ、本当に書きたい内容で書けないのは辛かった。「本当はこの主人公を発達障害者にしたい」という気持ちは最後まで消えなかった。

 でもいいこともあった。「未診断である自分の言葉の有効範囲」を考える上で、その縛りとこの作品は丁度いい難易度だった。発達障害考察という属性も背景に置くことができた。私の説明はよくわかりやすいと言われるのだが、その説明力を上げてくれたのは間違いなくこの作品だ。

 

 最終話の掲載は翌年の2月17日。第一話の掲載からたったの二ヵ月半だったが、この期間にそれまでにはない、多くの体験をすることができた。

  まず何よりも、この作品への取り組みを通して、自分の非定型的な感覚を新たな面から再認識することができたのは貴重な経験だった。私は「人が消える」という設定について、生き辛い境遇にいれば誰しもが思うことだと思っていたが、実はそうではなく、簡単には同調できない思想であることを、読者や他のネット作家とのやりとりを通して理解できた。自分が思っている以上に自分はまだ思い込みが強いんだな、と改める機会になった。

 私は他のネット作家と文章の技法に関するやりとりをしたかったのだが、やはり皆、自分の作品のことで忙しいのか、そういう話に積極的な人はいなかった。あと当時はわからなかったが、ビジネス目的で書いている人もいた。そういう人は営業マンみたいにただ褒めるばかりだった。特に文章が上手い人に多かった。

 自分の文章はどうやらわかりやすいらしい、というのもその後の人生を左右する大きな発見だった。小説についた感想の中には特にその意見が多く、中には私のような文章書きたくて小説を書いたという人もいた程だった。これは純粋に嬉しかったし、自信に繋がった。あと、受賞を目指す必要はないという判断にも繋がった。賞は目的ではなく手段だったから。

 

 なろうではあまり見かけないジャンルの作品だったらしく、初めてなろうに掲載したなろうデビュー作にしては感想も結構ついて、かなりの満足感と手応えを得たまま最終話を迎えることができた。でも、「いつか夜行バスで発達障害を主人公にしたストーリーが書きたい」という気持ちは消えなかった。

 そのいつかの目標に挑んだ作品が、今AmazonKindleで販売している「夜行バスの人々」である。

 

 執筆前の経緯、執筆中のこと、執筆後のこと、この作品に関わるエピソードを今の気持ちも交えつつ、全体的に書けたと思う。こうして振り返ったことで再認識できたが、この作品は文句なしに、私の人生の一部だと思う。まだまだ映像優位で、文章技法的にも全然だし、小説としての言葉の面白さは全くないんだけど、やっぱり私はこの作品が好きだ。

 そういえば、ここまで書いて思い出したけど、とある出版社から漫画化の提案を受けたこともあった。ネット小説の中から漫画化候補の作品を見つけて声をかけていたらしい。私の作品はそれを決める会議の中で落とされてしまった。残念だった。