私は人の言葉は聞けるし文章も読めるのだが、発達障害の特性故か、「学習」という形での理解ができない人だった。ただ聞ける、ただ読める、というだけだった。いつからか「人の言葉から考えるより、自分で考えた方が早いわ」と思うようになり、自分の言葉を追求するようになった。
だから私にとって、人の話を学ぶつもりで聞いたり、情報を得る為に本を買うということは特別なことだった。そういう事情を抱えているから、こんな風に思ったのかもしれない。
久しぶりに時事ネタの話をする。
どっかの出版社のお偉いさんが、自社で出版したとある作家の販売部数を暴露したとかいう話題をみた。私は別に驚きもしなかった。
私は自閉症スペクトラムの診断を受けた発達障害の一人として、その当事者活動の中で色んな人とお会いしてきたのだが、その中には出版業界やメディア業界に勤める人も何人かいた。
その業界人との交流を通して、私は業界に対して違和感を持つようになった。その違和感、というか「嫌な感じ」を語ってみる。うまく言語化できないかもしれないが、なんとか書いてみる。
その人たちは「文字や言葉に金を払う文化の維持」に対して、無関心すぎたのだ。それはその人の周りの人も同類であることがわかる特徴だった。
相手とその課題について議論したわけではないし、私は業界の人ではないのだから、そこまでの意識を持たせずに相手は私と会話していただけなのかもしれないが、それでも、平常時における口調や会話、印象から感じ取れることがある。
私たちの社会はありとあらゆるものに金を払う。でもそれは海や風、重力のような自然現象とは違う。この社会の中で維持されている文化の一側面に過ぎないものだ。軽くみた言い方をすれば、ただの習慣である。
ある言葉や文字の前に立って、「これを読みたければお金を払ってね」と言って内容を隠している人がいる。邪魔だからどいてほしい。でも私たちはその存在に疑問を抱かない。無視して通り過ぎるか、読みたければ黙って金を落とす、それのみである。
これは買う側売る側双方にとって、文字や言葉といった「情報」が「売買の対象物」であることが「常識」だからこそ成立する、最適化されたコミュニケーションだ。「これは買うものです」「え? そうなんですか?」なんてやりとりをする必要がない。私たちより前に生きた、先人たちのリレーが受け継いできた文化である。
でも今の時代はその常識が崩れようとしている。「もう崩れたところ」で言えば、ネットの登場や、電子書籍の普及があるだろう。
世界中がアクセスできるネットという空間に、誰でも自分の意見をいつでも設置することができるようになった。作家は出版社やメディアを通さなくても、セルフで電子書籍出版をするという新たな選択肢を得た。
市民は出版社の発行媒体を介さなくても、最新且つ規制のかかっていないリアルな情報を、いつでも好きな時に得られる時代になったのである。
さて、販売部数暴露騒動の中で、誰かが「作家は文章を書くこと、出版社は売ること」と言っていた。
では「購入する」についてはどうだろうか。
言葉、文字、情報。そもそも金銭的価値とは無縁の対象に、売る側があれやこれやの謳い文句を添付することで、買う側は「これは売買対象物だ」と思うことができた。
でもひとたび、大衆心理が「これは金を払う対象ではない」という認識に変わってしまったら、そんな対象を売ろうとしている存在に対して一般市民が思うことは決まっている。
例えば洗脳。
他には、ヤクザのしのぎなど、警戒心を煽るワードが挙げられるだろう。
ただその警戒心は、「役目を失ったことで変化した業界の別の姿に対し、新たに生成された大衆の印象」ではない。
そもそも出版業界はそういう属性を内包している経済活動であり、つまりその警戒される性質は、どれだけ頑張っても消えない属性であることがこの話の要点である。
この時代の出版業界は『文字や言葉に金を払う習慣』を、この先の時代にも受け継いでいくことができるのだろうか。私が活動の中でやりとりした出版業界の中の人たちは、自分たちが警戒される経済活動をしていることを、全く意識していないような人たちだった。
「購入する」が自然現象ではない以上、ある再現性を持続したくば、その習慣を人の手でメンテナンスをして維持する必要がある。それはどんなことにも言えることだ。メンテといっても機械の整備の話ではなく、人間関係や社会の仕組みなど、全てのことについて私は言っている。