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【無料版】『発達障害考察本2:心理校閲』(第一章:あぶり出し型脳の冒頭まで。約10,000文字)

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 昨年9月30日に制作告知をした考察本2の続報として、今回は本書のPRを兼ねて無料版を掲載します。今回掲載する無料版では『第一章:あぶり出し型脳』の冒頭まで読むことができます。

 

 どんな本なのか気になっている方はぜひお読みください。

 

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※無料版では「はじめに」をカットしています。

 

第一章:あぶり出し型脳

プロローグ

 発達障害の克服をかけた放浪旅から、9年後の2017年。私は頭を抱えていました。勤め先で思うように仕事ができなかったのです。業務上の意思疎通においても、簡単なやりとりでさえ噛み合わないことがありました。

『私は本当に、発達障害を改善できたのだろうか』

 そう疑わざるを得ませんでした。

 発達障害を改善できたと思ったのに、それは思い込みだった……。ネットで発達障害の話題を追っていると、年に何度か、そういう話を読むことがあります。私もそう思い込んだ一人だったのかもしれません。

 妻との生活は4年目の後半……自分はもう34歳……高校中退、ろくな職歴もない……発達障害の改善記事は非公開にするべきか……この先の仕事、生活……。

 これとは別に、当時交流のあった発達障害の当事者仲間から誘われて理事になったNPOもうまくいっていませんでした。いろいろなことがあって、理事の女性が自殺し、賛助会員が全員脱会。代表とは何度も話し合いをしましたが、これといった進展がありません。

『やっぱり発達障害からは逃れられないのか』

 日々強まる不安と諦め、自分の能力に対する疑惑。

 でもその気持ちが一線を越えることはありませんでした。なぜなら考えれば考えるほど、「やはり自分は症状を改善できているはずだ」という結論に至ったからです。しかし現に仕事はうまくできていません。難しいことができないのではなく、指示を聞いてその通りにやる、問題があれば相談や報告をする、電話応対をするといった基本業務や、それ以前の単純なことができなかったのです。

 発達障害は治せない、という考え方が定説ですから、この部分をお読みになってるほとんどの方は、「放浪旅で改善したと言うが、そもそも本当に症状を改善できていたと言えるのか?」という疑問を持たれているかと思います。当然の疑問だと思います。

 この時に私が抱えた混乱のスケールを実感していただく為にも、放浪旅の後からこの状況に陥るまでの経緯をお伝えします。

 本編が始まってまたすぐ過去の話に入りますが、これをお読みいただければ、改善できたことについて、ご理解と納得をしてただけると思います。

 症状の改善云々と関わるエピソードだけに絞ってまとめましたが、それなりに長文です。休みながら読んでくださいね。

 

頭を抱えてしまうまでの経緯

 2008年5月。発達障害の克服をかけた放浪旅を決行した私(25歳)は、東京のシェアハウスで生活を始めました。そして、一人暮らしをしていた時にも従事していたデバッグ(※)の仕事に復帰しました。

 旅中に得た「今の自分ならちゃんと仕事ができるはず」という漠然とした直感に従い、旅を切り上げて社会生活に復帰したのです。

※ 開発中のデジタル製品の動作チェックをする仕事

 

 その予感の通り、私は経験相応の成果を出すことができ、色んな現場で頼られてしまいました。なぜかケアレスミスが起きなくなり、なぜかコミュ障的な人格も表れなくなっていたのです。この頃、改善できた要因はわかりませんでしたが、改善されていることは自分の思い込みばかりではなく、周囲からの評価からも
分かりました。

 私がいない現場には入りたくない、なんて言い出す人もいたくらいで、そんな風に持ち上げられる立場に慣れていなかった私は、全く仕事ができなかった放浪旅前とは違った意味で、落ち着けない日々を送っていました。

 自分がどこまでできるのかを知りたくなった私は、自ら班長(※)の立場を志願しました。バイトリーダーのようなもので、一般チェックスタッフと社員の間に立って現場を回す立場です。

※役職名は実際の名称から変えてあります

 

 それから3ヶ月も経たない内に、今度は社員の先輩から、「俺と一緒に仕事をしないか」と誘われました。現場を統括する立場となる社員登用の話でした。私を誘ってくれた先輩はよく同じ現場に携わった間柄で、迅速かつ的確な判断を間近で見てきたので、密かに憧れていました。

 何年も班長止まりのベテランがいる中で、どうして自分を誘ったのかと聞くと、「きみとの仕事が一番楽だった」というのが理由とのことでした。その時の私は、『発達障害の症状に振り回されてきたけど、自分は本当に症状を改善できたんだ、自殺せず放浪旅までして頑張ってきて良かった』と、心の底から思うことができました。

 この頃、絵描きの現妻との関係も始まっており、二人で創作家の道を歩む約束もしていたのですが、将来の生活を相談し合い、私は会社員になることを選びました。

 それから私はすぐに会社を辞めたのですが、その辺の経緯は別の章でお伝えします。

 

 その後、私はいろんな仕事に挑戦してみることにしました。いくつかあるのですが、特に今の話と関わりが深い、ネットカフェとコンビニバイトの話をします。

 

 漫画やゲーム、パソコンが好きだった私にとって好きなものに囲まれたネットカフェは、以前より興味のあった仕事でした。

 デバッグの仕事でも証明された通り、仕事の習得について大きな問題はありませんでした。先輩やマニュアルの説明もその意図通りに理解できましたし、わからないことはすぐに察知して、自分から質問をして解決できました。

 この頃の私のケアレスミス頻度は、放浪旅前とは比較にならないほど落ち着いており、普通の人レベルと言っても過言ではなかったと思います。

 でも「急かされなければ大丈夫」という条件付きであり、何かの拍子に感覚のピントがズレてしまうと、焦りが落ち着くまでミスを頻発してしまうことがありました。それがこのネットカフェで働いている時に、ケアレスミス改善の秘訣を理解することができたのです。

 

 ここは考察本1の方でも詳しくお伝えした内容ですが、私がちゃんと改善できたことをご理解していただく上で必要な話ですので、本書でも要点のみお話しします。

 ある時、入店と退店のラッシュがありえないタイミングで重なり、いつもの調子だと絶対にミスをしてしまうと思った私は、咄嗟の思いつきで、会計処理の手順を一手一手進めるという方法で乗り切ることにしました。伝票を受け取る→カウンターに置く→利用時間を確認する→レジを入力する……といった感じで、「次の一手」だけを考えて動作したわけです。それまでは始めから終わりまでを一連の動作を、まるで一つの動作であるかのようなイメージでやっていました。

 一手ずつ確認して動作をするやり方は、衝撃的な発見をもたらしてくれました。次の動作しか考えないということは、その次以降の動作のことを考えていないわけですから、それまでの自分なら『そんなんで仕事ができるわけない』と思うところなのですが、それでもやけくそでやってみたところ、その方が正確にできて、気持ちも楽だったのです。

 直感的に、この感覚の使い方を平常感覚にするべきだと決めました。それから私は、部屋のドアを開けるとか、コップを手に掴むなどの日常動作を、コマ送りのように細かく動作するという自己トレーニングを繰り返し試行して、その感覚を自分の意識に定着させました。こうして私は、「ケアレスミスを起こさない平常感覚」を、訓練を通して習得することができた、というわけです。

 

 コンビニバイトは実家暮らしの時にも、家業の仕事とは別に掛け持ちでやっていたことがありました。その頃は、仕事もろくに覚えることができず、迷惑ばかりかけていました。でも今の自分なら仕事ができるはずだと、その確認をする為に再挑戦しました。

 何度か商品の陳列場所を間違えてしまったことがありましたが、それを除けば特に酷いミスもなく、仕事の習得においても大きな課題はありませんでした。

 仕事が習得できるようになった理由は考えるまでもなくわかりました。放浪旅をきっかけに、仕事を遂行する上で最も負担になっていたケアレスミスを改善できたことが何よりの理由であり、普通の人のように業務と関われるようになったからです。

 最初は簡単なことからやり、慣れてきたら少しずつややこしい仕事を覚えていく。これは普通の人にとっては当たり前のことなのだと思います。でもこの頃の私にとっては特別なことで、ほぼ毎日、自分が仕事を理解していく変化を実感しながら生きていました。

 コミュニケーション面でも、放浪旅前のような自分の不可解な言動を起因とした問題や混乱は、起きなくなっていました。トラブル自体はありましたが、人同士が関わっていれば避けられない事柄で、障害云々の観点から考える必要のないことだったので、適当な距離感を意識しながら、これも日常の一面として受け止めていました。普通の人の関わり方だと思います。

 

 その後、私は東京での生活を終了して実家に戻りました。現妻と新天地で一緒に暮らすことになったのです。しかし、引っ越し費用のことや、新生活を始められるだけのお金がなかったので、一旦実家に戻って貯金をつくることにしたわけです。お金がなかった理由は私のギャンブルが原因なのですが、このエピソードも別の章でお伝えします。

 

 で、帰郷後は地元のゲームショップで働くことになりました。実家暮らし時代にも掛け持ちで勤めていたバイト先で、挨拶がてらに顔を出したら、ちょうどバイト募集中で、短期で働かせてもらえることになったのです。

 そしてある日の仕事中、放浪旅のことや東京での暮らしを話していると、店長が「それ、アスペルガーだ」と言いました。なんと、店長のお子さんがアスペルガーの診断を受けていたのです。その会話の中で、店長は「どうやってそんなに仕事ができるようになれたの?」と私に聞きました。
 店長は、ミスばかりで簡単な仕事がいつまでも覚えられなかった放浪旅前の私を知っているので、気になったんだと思います。
 この時の言葉で、『私は本当に仕事ができるようになったんだな』と確信がもてました。

 

 もう少しだけ、過去の話が続きます。

 

 このような体験を経て、現妻との共同生活を始めたのが2012年の夏。私は29歳になっていました。

 妻は近所でアルバイトを見つけ、私は個人事業主としてネットショップを始めました。自分は雇われるよりフリーランスの方が合っているのではと常々思っていたので、実家に帰ってゲームショップで働ていた時、個人事業で生計を立てる道を探っていたのです。

 郵便局との大口契約、税務署では開業届、警察署で営業許可証の取得など、何もかも初めての体験でしたが、手続き類はネットや友人を頼りながら処理しました。ちなみに確定申告は青色で、帳簿の付け方は地元の商工会議所で教えてもらい、エクセルで自作しました。

 

 しかし一年後、私は自営の道を断念しました、そして、ハローワークを頼って転職活動を始めました。ネットショップは売上が思うように伸びなかったので、規模を縮小した上で、副業としてやっていくことにしたのです。
 ハローワークでその時までの経緯を伝えて〝障害者に対して理解のある職場〟を希望したところ、発達障害の再診察を勧められ、私は診察先でアスペルガーの診断を受けました。でも障害者手帳の発行が間に合わず、クローズ入社※での一般雇用で探すことになりました。

※障害のことを隠して入社すること

 

 そうして、製紙加工の工場に入社しました。私はこれから妻と歩む人生を考えて、どんな仕事でもちゃんと習得できることを確認する為に、あえてそれまでの人生とは縁もゆかりもない未体験の業種を選択したのです。
 工場の業務は機械の操作手順や各業務の対応方法がはっきりしていたので、大きな苦労もなく習得することができました。ベテランの方から「こんなにも早く覚えてくれた人は初めて」と言われたり、工場長からも「仕事の習得は問題ない」と言われていました。

 でも、障害を打ち明けたことをきっかけに、ある同僚からのパワハラが始まりました。

 私は工場長や社長を相手に異動願いを出しました。話し合いや検討などで3ヶ月ほどかかった末、私の願いは通らず、退職しました。

 

 その選択に伴い、またネットショップを本業に戻し、自営の道に再挑戦しました。それから、私は時間の融通が利く生活を利用して、当事者としての発信活動を本格的に始めることにしました。

 この時に始めたことが、発達障害を題材にした映画制作活動です。その発信活動の一環として、ケアレスミスとコミュ障の改善記事も掲載しました。

 

 しかし翌年の2016年の夏の終わりに、私の扱っていた商材の市場事情に大きな変化があり、いよいよやっていけなくなりました。映画制作もそれどころではなくなった為、休止せざるを得ませんでした。

 このとき既に、発達障害の当事者仲間に誘われたNPOの理事になる話も進んでいたのですが、籍は置いたまま、生活の立て直しに専念させてもらうことになりました。なかなか、すんなりとはいきません。

 

 ここでまたしても転職活動をすることになったわけですが、この時、求人情報詐称に遭ってしまい、求職活動に費やした2ヶ月が無駄になってしまいました。求人情報媒体には21万〜30万と明記して、四次面接まで引っ張っておきながら、雇用契約書に提示された基本給は14万。しかも障害者雇用求人の話。……この会社に対しては、謝罪要求をしたり面接に足を運んだ回数分の日当を内容証明で請求したのですが、今の話とは関係ないので割愛します。

 ここまでにお伝えしてきた通り、放浪旅を経て私は仕事の習得ができるようになりました。ですから、「なんでもやるぞ、挑戦するぞ」という意気込みを持って求職活動をしてました。でも学歴や資格不問で、開業届けを出した副業持ちで、月18万以上の障害者雇用となると、私のやる気以前に、まずその条件に障りのない求人情報が見当たりません。なんとか行けそうに思えても、電話で副業云々のことを聞けばすぐに断られてしまいました。一般雇用でも厳しかったと思います。

 

 2016年11月。生活資金的に、求職活動に当てられる期間が僅かとなり、最終手段として考えていた警備の求人をいよいよ当たろうかと思った矢先、ある人物から仕事の相談が舞い込んできました。 メディア関係の仕事をされている方で、以下、A社のA氏とします。A氏とは、私がブログなどで行っていた発達障害の発信が縁となって知り合いになれた方で、たまにメールなどでやりとりをしている仲でした。話を聞いてみると、自分の秘書の退職に伴って後任を探していたところ、私が転職活動中であることをネットの書き込みで知り声をかけた、ということでした。

 そうしてリアルで何度かお会いした末、年明けの1月から、私はこの人の秘書として事務所で働けることになりました。

 

 この時の私は映画制作活動を通じて、メディア業界に対する興味が高まっていました。これから自分が歩む道かもしれない、とまで思っていました。そんな私から見れば、A氏は『自分の師に値するかも』と思えるほどの経歴を持つ人物でした。何よりも頼れる点として、A氏はメディア関係の仕事の中で、発達障害に関する取材や言及もしている方でしたから、障害に対する理解度も問題ないわけです。

 工場や求職活動では散々な目に遭いましたが、人生なにが起こるかわかりません。この話を断る理由はありませんでした。障害相当の症状を克服して、仕事の習得もできるようになったわけですから、もう怖いものなんてありません。

 

 さて、長々と過去を語ってきましたが、ようやくプロローグに追いつきました。この時に勤めた秘書の業務というのが、本章の冒頭でお伝えした勤め先のことなんです。

 ここで改めて、本書の紹介をします。

 発達障害の改善を謳う本は、年々その数を増やしています。

 本書も、〝症状の改善の示唆する〟という意味では同じジャンルですが、他とは違います。

 本書のバックボーンとなる物語は、症状を改善した当事者が、その後に陥った境遇が舞台なのです。

 

仕事ができない

 A氏と最初にお会いした時、私たちは「できること・できないこと」を話し合いました。発達障害の症状を改善したと言っても、厳密にはケアレスミスとコミュ障を改善したのであって、障害特徴そのものを取り除けたわけではありません。

 

 私からは、

  1. 自分が「できる」と約束できるのは手順化された業務。チェック方法が明記されたデバッグ作業や、決まった通りのやり方を繰り返す工場の加工作業など
  2. NPOではタスク管理アプリを使っている。こういうものがあるとわかりやすい
  3. 秘書の仕事はやったことがない。仕事の内容は、関係者との中継やスケジュール管理、雑用などの諸作業というイメージ
  4. ケアレスミスの頻度とコミュニケーション力は普通の人レベルに改善できたが、自覚できていないだけで未知の症状が潜んでいる可能性がある
  5. わからない状況に陥るとそのまま考え続けて、誰にも相談したままやり続けてしまうことがある。仕事中はその悪い癖がでないよう気を付けている
  6. 発達障害の診察結果の内容

 

 という旨の話を、過去の体験を根拠として詳細に伝えました。

 

 A氏からは、

  1. 仕事のやり方はマニュアルがあること
  2. そのアプリのことはわからないが、(iPadを見せながら)デジタルを活用していること

 

 という、職場環境が整っている旨を強調する話がありました。
 この他、実際に仕事ができるかどうかのテストとして、書類作業のお手伝いをしました。

 このようなやりとりを経まして、意思疎通について齟齬はなく、業務の習得の面でも大きな混乱はないだろうと、お互いが思えるところまで確認し合ってから、実際の秘書業務に就きました。

 しかし、ここまでやったにも関わらず、業務初日から大混乱に陥ってしまったのです。

 

 まず最初の業務として、退職予定である秘書さんからの引継ぎがあったのですが、その量があまりに膨大で、1日〜2日程度で預かれるボリュームではなかったのです。しかもこの秘書さんは、経文のような抑揚のない口調の方で、一つ二つのことを教わるだけならまだしも、一日中聞きっぱなしとなると辛い相手でした。

 あとこの秘書の仕事は、普通に秘書スキルが必要だと思えました。少なくとも、未経験者がマニュアルを頼りにやれば遂行できる性質の業務だとは思えませんでした。

 そのほか細々としたフラグを総合すると、私を迎え入れる準備は何もされていなかったとしか思えませんでした。私に対する扱いも、発達障害の診断を受けている立場から見て、あまりにも相性の悪い職場環境でした。

 

 3日目が終わってもまだまだ引継ぎが終わりそうにない状況を考え、「この仕事に就くのは無理だ」と判断してA氏に告白。そうして秘書の仕事に就く話は白紙となりました。

 そして私は別の仕事に携わることになりました。会社の新事業として撮影スタジオを設立する業務で、場所はA氏の旧宅を利用するとのことでした。これも全くの未経験ですので、能力的に絶対有していない旨を慎重に説明したのですが、A氏からは私との関係を続けたいと感情的に語られてしまい、その気持ちに応える形で承諾しました。

 結局、その仕事でも大混乱に陥ってしまうわけですが、ここで一旦話をストップします。

 

 こういう境遇でしたから、秘書業務ができなかったことに悩む理由はありません。引継ぎの中で携わった範囲だけですし、そもそも業務のやり方が事前に話し合った内容と違いました。スタジオの設立業務のことも何も知らないので、私はなんにも決められませんし、なにかとうまく出来なくても、不慣れなことに対しては当然のことなので、別にできなくてもいいわけです。

 私ができなくて頭を抱えた仕事というのは、そういうことではなく、こういうことなんです。

  • 電話応対をすると、相手がなにを話しているのかがわからなくなる
  • 簡単な作業でも指示の細部を失念してしまう
  • 相手の話の意図を早とちりしたり勘違いしてしまう

 

 これらは秘書スキル云々関係のないことのはずです。

 放浪旅の前はこれらができませんでした。できている状態の感覚もわかりませんでした。放浪旅の後から急にできるようになりました。厳密には〝周囲の会話の速さについていけるようになった〟という感じで、東京暮らしを始めて久しぶりにデバッグ業務に戻った時は、『普通の人はこんなにも早く話していたのか!』と驚いたのを覚えています。その後も改善度は上がり、ネットショップの自営業をしたり工場で働いた頃には、全く気にならなくなった自分の過去の特徴です。

『できるようになったことが、またできなくなっている』

 そう認める必要があると考えました。

 

 普通の当事者なら、「やっぱり自分は障害者なのか」などと思い込む状況だったと思います。過去に、私も同じ心境に陥り、精神科へ足を運んだことがありました。

 でもこの時の私にとっては、ケアレスミスやコミュ障の改善は、自転車の乗り方や箸や鉛筆の持ち方を習得したことに限りなく近いことでした。だから、なんの前触れもなく急にできなくなってしまったことに、強い違和感を覚えたのです。

 今これを読んでいるあなたに聞きます。もし、急に箸が持てなくなったり自転車に乗れなくなったら、どう思いますか。まず、「自分の何かがおかしくなった、なぜだ? なにが原因だ?」と思うのではないでしょうか。

 私も同じ気持ちでした。

 私は発達障害当事者でありながらも「改善できた状態」を体験しているので、普通の人と同じ視点に立って考えることができたんだと思います。

 

理解が遅れてやってくる

 A氏と仕事をするのは呼ばれた時だけとなり、私は生活費を稼ぐ為に、3月から警備の仕事を始めました。

 警備の仕事に就いた理由は、自分の学歴や職歴などからみて、社保有り手取り月18万以上稼げそうですぐに雇ってくれそうな仕事となると、週5日できて日給1万円以上と謳っているアルバイトの中から探すしかなかったというのが一つと、以前交流のあった当事者の方が、警備の仕事で特に困ることはなかったと話していたのを覚えていたからです。

 実際にやってみると、すぐに雇ってくれましたし、警備の仕事は天職かと思えるほど、私が鍛えてきた感覚と合っているものでした。これはまた別章で詳しくお伝えします。

 

 4月。警備の仕事をする日常にもなんとなく慣れて来たある日、私はスマートフォンのアプリで新聞を読んでいました。その時にふと、自分の脳で起きている奇妙な現象に気が付きました。

 記事の中盤を読む頃には、冒頭部分が頭からもう抜け落ちていたのです。そして後半部分を読み始めると、さっきまで頭に浮かんでいた中盤部分が、もう頭から消えているのです。

 私にとって他人が書いた文章というのものは、まず一度読んだだけでは頭に入ってこないので、いつも何度も読み返していました。特に学校のプリントや新聞のような形式ばった文体、小説などは通読するのに苦労しました。

 文章が頭に残らない、ということだけで言えば以前から自覚していることでしたが、この時は頭から文章内容が抜け落ちていく流れが認識できたのです。そんな風に細かく意識できたのはこの時が初めてでした。『内容が覚えられない』といった具合にざっくりとした認識していたのですが、こういうことが起きていたのか、と。

 で、何度も読み返している内に、どういう記事なのかがわかってくるわけです。

 

  1. 読めているのに内容が頭に残らない
  2. 何度も読み返している内に内容が頭に残る
  3. つまり、私の「文章や声の内容を理解する脳の機能」は、反応してから起きるまでに若干の時間を要する?

 

 私はこの現象を上記のように推理しました。

 同時に、妻との会話でも同じ現象が起きていることに気づきました。妻に話しかけられると多くの場合、最初の第一声や言葉の冒頭部分がよく聞き取れなかったのです。だから「え? もう一度言って」と聞き返すことが頻繁にありました。この気づきまでは、「妻の声はなんか聞き取りにくいなぁ」と思っていたのですが、自分の方に原因の根があると考えを改めることができました。

 

 更に、仕事でも同じ現象が起きていることに気づきました。仕事中は混乱してしまって十分な対応ができなかったことでも、退勤後の帰り道や家に帰った後になってから、仕事中の状況が整理された状態で頭に浮かぶのです。対応できなかった要因のほとんどは単純なことで、落ち着いていれば何事もなくやり終えられたはずでした。

 こういう現象が稀にではなく、ほぼ毎日、しかも複数の細々とした事柄について起きていました。全体を振り返ると異常なことですが、日常の中ではそういう奇妙な現象だと認識できませんでした。次は落ち着いてやろう、もうわかったから大丈夫だ、などと思って自分に釘を刺しながら、次の日を迎える。その繰り返しが、日常のただの一コマになっていたのです。

 ここまで整理したところで、直感的に、この症状がとんでもなくヤバイものであることを察知しました。大人の発達障害に悩んでいる人の多くが、ケアレスミスとコミュ障の症状に生き辛さを抱えています。この2つさえなんとなれば、と思います。私もその一人でしたし、自分はその最大の苦労を改善できたと思っていました。

 でもこの『理解が遅れてやってくる症状』は、ケアレスミスやコミュ障どころの話ではありません。思考の働き方そのものがスケールとなりますし、A氏の事務所で秘書業務以前の基本的なことができなくなった要因にも通じます。

 

 そうして9年前の放浪旅前に、一人暮らしをしていた頃のある記憶が蘇りました。

 それが、『あぶり出し型脳』というキーワードだったのです。

 


 

 最後までお読みいただきありがとうございます。無料版はここまでです。製品版ではこの状態から更なる加筆や改稿があると思います。ご了承ください。

 

 考察本1と同様、本書の内容の多くはブログ上に掲載してありますので、『あぶり出し型脳』について早く知りたいという方は、このまま下記記事へお進みください。


 あぶり出し型脳のことだけではなく、考察本2に掲載されるブログ記事の全体が知りたい方は、下記の記事を参考にしてください。

 

 考察本2のタイトルについてですが、『発達障害考察本2:心理校閲』を決定版にする気持ちで固まりつつあります。また続報の際にでも正式に告知したいと思います。

 

 なお、記事の上限でも告知していますが、19年4月に出版した考察本1は現在100円セール中です。この機会にぜひぽちってくださいね。