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発達障害考察ブログ HYOGOKURUMI.Scribble

言葉は嘘をつきません

2019年5月3日 1,000,000PV達成

『へんなこ』を読んでくれた人へ:いじめは交通事故に置き換えると考えやすい

 この記事では「へんなこ」を読んでくれた人向けに、へんなこを創作するまでのエピソードや、私のいじめ問題論の話をします。あとがきみたいなノリで書きます。ご関心ある方はお付き合いください。

 

 

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へんなこを創作するまでのエピソード

 「へんなこ」は5年くらい前に、とある創作サイトに投稿したいじめを題材にしたお話しです。

 ただ私はネットをやり始めた17年くらい前から、いじめの話題によく参加していまして、大体いつも「いじめた側の問題点だけではなく、いじめられた側の人格にも目を向ける必要がある」という持論を主張してきました。

 

 この考え方には私自身が中学生の時にいじめられた体験が深く関わっています。私は人の嫌悪感を煽る言動ばかりする生徒で、クラスメイトは辟易していました。私がいじめをさせていたのです。

 その末に小学生の時から一緒に遊んでいた友達からも嫌われてしまったのですが、そのことをきっかけに自分のおかしな人格を自覚することができました。

 

 その当時のエピソードはこちらです。

 


 こうしていじめ問題は解決できました。相手がいじめ行為をするトリガーが私の言動だったので、私は自分の言動を調整するようにしたのです。たったそれだけのことでいじめは沈静化し、私は平穏を得られました。

 人格上の問題に関してはその後も長く付き合うことになりましたが、少なくともあの時、自分のおかしな人格を自覚できなかったら、私の人生は闇に包まれたものになっていたでしょう。


 この体験をするまでの私は、

  • いじめはいじめた側が悪い
  • 自分は何も悪いことはしていない
  • いじめた側が反省しいじめをやめる

 

 という「気持ち」に支配されていました。「支配」とは強い単語ですが、「主のいない洗脳だった」と、そう思うくらい私は当時の自分の精神状態を危険視しています。他の人の意見が耳に入らない状態だったからです。

 私のいじめ問題のことで開かれた学級会では、いじめた側とされたクラスメイトが、私の言動についていくつかの指摘をしていました。それらの意見は私にとって、「いじめの言い訳」でしかありませんでした。

 

 ネットを始めた頃の私はいじめ関連の話題を読んでいるうちに、「過去の自分と同じような精神状態の人がいる」と確信し、自分も書き込むようになりました。

 

 最初の頃の私は「答えは君の中にある」とか語ってしまうポエムマンだったので、「いじめられた側に潜む人格問題に目を向ける重要性」の話は誰も理解できませんでした。いじめられている相談を書き込んだ相手から「馬鹿にするな」と叱られる始末です。

 それでも懲りずにやり取りを重ねていく内に、何年もかかってようやく、今ような物差しで測ったような文章を書けるようになり、その成長と共に私の主張に納得してくれる人も増えてきました。

 

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 ただいつも、どうしても話が伝わらない人がいました。そういう人の中には、いじめられた側のことは擁護するのに、大人の引きこもりに対しては「働け」「クズ」など厳しいことを言う人がいました。引きこもりなど社会適応に難がある人の中には、子供の頃のいじめ体験が深く関わっている人もいます。そういう過去と未来の繋がりがわかっていないように思えました。

 

 どうすれば伝わるか? と考えた私は、実体験をもとに解説するのではなく、物語風なら伝わりやすいのではないかと思い創作したのが、この「へんなこ」でした。

 

 実体験をもとにした解説記事はこちらです。

 

 いじめ問題を考える上で、いじめられた側に潜む人格問題は見逃してはいけない問題です。「へんなこ」はずっとネットに置いておきますので、うまくつかってもらえればと思います。(コピペや改変も自由とします)


いじめは「交通事故」に置き換えて考えると思い込みが解ける

 先月書いた発達障害の記事の中で〝「発達障害は治せない」など定着した構文が、深刻な思考停止を招いている〟と話しました。 いじめ問題でも同じことが起きていると私は指摘します。

 

 「いじめはいじめた方が悪い」。よく聞く台詞ですね。小さな子供に基本的な善悪の基準を植えこむ上ではわかりやすい言い方だと思います。しかし、この言葉には実際にいじめを解決する力や防止力はありません。

 そもそも「いじめ」という単語は「状況」を指している言葉であって、〝誰が何をどんな目的で行った〟という部分までは決めていません。身近な言葉で言えば、「事故」や「事件」に相当する位置の名詞です。

 「いじめはいじめた方が悪い」とは、「交事事故はぶつかった方が悪い」と言うようなものであり、思い込みなのです。

 

 不思議なことに、「交通事故」なら「なにが起きたのか・なぜぶつかったのか」と、まず「なにが起きたかを知ろうとする意識」が持てる人でも、これがいじめだと変なスイッチが入ったかのように、頭が「いじめた側が悪い」だけになってしまう、そういう人が少なくないんです。

 ネット上でそういう人とは何度もやりとりしましたし、自分の親もそうでした。

 

 自分の人格のおかしさを自覚した後、親にそのことを悩みとして相談したことがありました。しかし父は「誰がやったんだ!」「殴りにいったる!」と、苛立った様子でいじめた側を怒ることしか言いませんでした。私が聞いた「自分のおかしさやいじめられる原因」についての話は、何度も言い換えて伝えたにも関わらず、まっっっっっったく耳に入っていないようでした。

 これは個々の思想の違いというより、洗脳か何かに近いものだと私は考えています。元凶はメディアか教師か、親か。まぁ影響の特定はできないでしょう。個人的には依存症が怪しいと思っていますが。

 

 「原因があってもいじめていい理由にはならない」も、これと同類です。まずそのいじめ行為はいじめの自覚を持ってやっているのでしょうか。「そんなやついない」とは言いませんが、いじめをするつもりでいじめをしている人は決して多くないと思います。そう思うのは、「一方がぶつけるつもりで起きた衝突事故が交通事故全体からみて多いとは思えない」のと同じです。

 「遊び」や「嫌悪感」など自然体のまま言動に表れてしまう意識が、悪いほうに悪化しただけでもいじめ状況は形成されるのです。その境遇にいれば誰がいじめ加害者になってもおかしくないのです。そんな日常の中で自然形成された言動を「いじめる原因があって行ったいじめ行為」と認定するのは無理があります。せめて事故や事件のように「故意・過失」の分類を取り入れるべきです。しかし思い込みに支配されている人はそういう発想が持てません。 

 

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 上の画像は交通事故を表した画像です。この画像だけで、どちらがぶつかった側で、そのぶつかった理由がわかりますか? 私にはわかりません。

 それを明らかにするには、どんな情報が必要ですか。

 

 このように「いじめ」のことは交通事故に置き換えて考えると、いじめ問題を考える上で必要な言葉や観点に意識が伸びやすくなります。交通事故は、双方過失の場合や一方の故意の場合など、ケースバイケースの事象を考える上で必要な点が掴みやすいのでおすすめなのです。

 

終わりに

 今の時代も、いじめを苦に自殺してしまう人が後を絶ちません。いじめた側の悪行やいじめられた怒りや悲しみなど、そういう「メディア的発想」に囚われてしまい、解決の為に必要な思考や行動がわからない精神状態に陥ったことが自殺の一要因として挙げられるでしょうか。

 風邪をひいたら薬を飲んで寝て休むことが当たり前であるように、「いじめ問題が起きたらまずこうする」くらいに、この記事に書いたことが当たり前になってほしいと思ってます。