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ブログ開始日 2015年12月31日
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当ブログの発達障害に関する記述は当事者の体験に基づく考察です。ご了承の上でお読みください。
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発達障害考察ブログ HYOGOKURUMI.Scribble

言葉は嘘をつきません

発達障害と犯罪心理 その1:人に心が読まれている感覚

 「はじめに」の改稿が落ち着いてきたのでそろそろ話を進めようと思う。ただ、時間がなくて本が読めないので自分の話をしよう。

 

 

人に心が読まれている感覚

 最初にこの感覚に見舞われたのは高校1年生の時だ。クラスメイトと雑談をしている時に、唐突にそんな感覚が膨らんだのだ。

 中学二年生の時のいじめ体験をきっかけに自分の非定型人格を自覚するまでは、私は普通の会話ができない奴だった。「うんうん」とか「わかる~」とか「でさぁ」といった簡単な相槌をしながら進める会話ができなかったのだ。思うがままに話すので唐突に脈絡のないことを言ったり、その時の会話の熱にそぐわないボケやツッコミをしてしまうウザイ奴だった。そういう非定型的人格を自覚をしてからは普通を目指すことにした。それから少しずつだが会話上での齟齬は目立たなくなっていった。

 

 高校は人間関係をやり直す為に自分しか進学しない工業高校を選んだ。学力的にはどこも無理で、形だけの入試と面接だけの推薦入学しか道がなかったわけだけど、高校生活では自分から面倒ごとに首を突っ込まない限りは比較的平穏な生活を送れていた。

 人に心が読まれている感覚はそんな日常の中で突如とした私の頭の中に沸いた。クラスメイトの受け答えが、私の想像とほとんど同じだったのだ。(あれ、なんで知ってるんだろ?)と、言語化できるほどはっきりとした違和感だった。

 

 当時の私は、自分の非定型特徴で周りを困らせない為に、何かと先を読んで普通の展開を想像することを癖としていた。何気ない会話でさえも、小説や漫画の登場人物同士の会話の考えるように話の内容や展開をイメージしながら話していた。

 それを意識してやっていたからか、この人に心を読まれる感覚のことで大きな混乱はなかった。「きっとこれは、自分の考え方が普通寄りになったからだ」と思えたからだ。だから悩むこともなかったし、深く考えることもなかった。この感覚が強まった時だけ不思議な気持ちになるので、むしろちょっと面白がっていた。

 

 ただ想定外だったのは、この感覚が高校中退後も実家暮らしの時も、その後の一人暮らし生活でも、たびたび頭の中で発生したことだ。精神面が落ち込んだ時にこの心が読まれている感覚が強まった時は流石に混乱することもあった。最終的には「自分の考え方が普通寄りになった」という判断は間違いで、これはただの異常な感覚だと思うしかなかった。

 

 一人暮らし生活の後、私は発達障害の克服をかけて放浪旅に出たのだが、記憶違いで泣けば、その後の生活でこの感覚が強まることはなく、そのうちに忘れてしまった。

 次に思い出したのは30歳を過ぎてからで、特にきっかけらしいものはなく、日常の中でなんとなく、そんなこともあったなと記憶に蘇った。

 同時に、やはり異常な感覚だったと再認識できた。

 あんな感覚、日常を営む上では邪魔でしかないからだ。

 

  それから数年後の2019年7月。京アニ放火事件が巷を騒がせている中で、私は再びこの感覚を思い出すことになった。(参考:京都アニメーション放火殺人事件 - Wikipedia

 犯人の動機は、同社が実施した小説大賞に応募した自分の作品が無断で使用されたことらしい。その話をニュースで知った私は二十歳くらいの時の出来事を思い出した。

 当時の私は実家の飲食店で働きながら将来の生き方を考えていた。実家の店は継げそうにないと判断したからだ。で、生き方のヒントを求めて近所のスーパーマーケット内の本屋に行った私は、そこで『原因と結果の法則』というタイトルの本を目に留めた。そのタイトルが頭から離れず、イライラしながら本屋を徘徊した。

 原因があり、結果がある。その概念は、私が自分が陥ったいじめ状況を解決する上で、自分で見出した考え方そのものだった。つまり当時の私には「自分の考え方が勝手に売られている!」と思えたのだ。

 私の両親は当時熱心な創価学会の信者で、現実に起きたことの原因や経緯を「創価の物差し」で考える人だった。「結果」に対しては「原因」ではなく「創価の教え」の中から考えるのである。私はそんな親の元で育てられたせいか、一般的には親から教わるレベルの常識的な因果関係の概念を習得しないまま育ってしまった。だから中学生の時にいじめられた際も「周りは悪魔のような奴だ」とばかり思っていた。友達からも嫌われたことをきっかけに「自分が嫌われる奴だった」ことを理解できた時は、心の底から驚愕したものだ。

 その当時の私の善悪の基準はアンパンマンレベルだった。同作では悪役のバイキンマンがアンパンマンから攻撃されてやっつけられる。それはバイキンマンが悪い心を基に、悪い行いをするからである。だからアンパンマンはバイキンマンを攻撃するのであり、その攻撃は正当化される、という理屈である。つまり、いじめられる=攻撃されることは、悪の考えを基に悪いことをしている人の証であり、悪の考えを持っていない、悪いこともしていない自分が攻撃されることは、当時の自分にとっては理不尽な暴力でしかなかったのだ。

 それが、友達からも距離を置かれたことをきっかけに自分がいじめられるという結果に対する原因を考えられるようになり、いじめだけではなく多くの物事に対して原因と結果の観点を持てるようになった。

 そのエピソードが数年後、本屋での「自分の考え方が勝手に売られている!」に繋がるというわけだ。

 

 このバカみたいな妄想の背景には人生があり、かなりスケールがでかい上、自分に対しては絶大な説得力を有している。世の中には出版社に「自分の考えが本になっている」とか「盗作しただろ」とか言って突撃しちゃうような人がいるようだが、私自身がそういうことをする人になってもおかしくなかったと思う。実際、そういう人の気持ちがわかってしまう。

 私がそうはならなかったのは自他の区別がついていたからだ。二十歳の本屋の時は「自分の考え方が勝手に売られている!」とは思ったものの、頭の中を覗かれるなんてことは常識的に考えてありえないことが理解できたし、仮に本の内容が自分の考え方と同じであるとしても、私と本と著者に接点はない。自分の考え方が勝手に売られている、は衝動的に出た感情であり、比喩にすぎない。

 今だからわかることだが、私の精神は当時も病んでいた。ただそれでも、「普通とは何か」をテーマに物事を現実的に考え続けてきた意識が、頭のどこかで着実に形になっていた。

 だから衝動的な意識に主導権を取られずに済んだのだと思う。

 

 私はこの自分の体験を珍しいケースだとは思わない。発達障害者の大多数は「普通とは何か」を人生の課題として突き付けられる。その当事者の何割かは考察していく内に、普通に対する概念の精度が高まり、私のように普通寄りの平穏な日常が送れるようになった途端に、自分の考えが周囲に漏れているという感覚に見舞われるだろう。

 そこに犯罪心理との結びつきがある。

 何かの拍子にその感覚が強まった時、もしかしたらイライラするだけに収まらず、攻撃的になるかもしれない。相手に対して何らかの制裁を追求したくなるのかもしれない。人生の尊厳がかかっているからだ。それを脅かすものは個人的にも社会的にも絶対悪でしかない。

 

 感情の衝動に主導権を奪われ、異常犯罪を実行してしまった人はきっと、〝看過できなかった〟のだろう。私にはそう思えてならない。