親の自己破産、一人暮らし、 ストーカー、発達障害の診察、放浪旅、ゲストハウス暮らし、貯金の為の帰郷――などのエピソードを経て、なんとか相方との同棲生活を始めることができたのだが、パチスロを断って借金をほぼ返済できたところで、今度は職場の同僚の影響でまたパチスロに手を出してしまった。そしていつものように後悔し、その反省も長続きせず、やはりまたパチスロを打ってしまったのだが――
【第7話 最終話後編】俺、もうスロやめたよ(本当)
私が本格的にパチスロにはまってしまったタイミングは、やはり歩き旅の後からだろう。一人暮らしをしている時は、「ここまで」と決めた金額以上に打とうとは思わなかったし、歩き旅の最中も特に打ちたいとは思わなかった。
で、歩き旅後にまたデバッグの世界に戻った私は、パチスロ技能の習得については、自分ならできる、覚えられる、だから最終的には勝てるようになる(諭吉を救出できる)という自信を常時維持するようにしていた。そういう気持ちがなければとてもじゃないけど本気になれないと思ったし、数分で数千円を失う投資だってできなかった。
「これはやり続ければ、勝てるようになる」
...と思ってしまった瞬間から、その人はもう中毒状態なんだと思う。そう思うまでにどれだけ打ったかはあまり関係がないように思う。たった一度打っただけでも、そこまで思ってしまったら、もう覚えてはいけない感覚の虜になっているのだ。
その後は、デバッグの仕事を辞めた後もパチスロを辞められなかった。貯金の為に帰省しても、同棲を始めても、仕事を変えても何をしても止められなかった。この間、感情の上ではあれこれと思考を巡らせてはいたが、何もかもが通用しなかったのだ。どれだけ強く止めようと思って、どれだけ酷い目にあっても、時間が経てば気持ちが落ち着き、そしてまたある時突然「打ちたくなるスイッチ」がONになってしまう。
この、波のように引いては押し寄せてくる射幸心の苦しみに、私は勝てなかった。自分の感情や意思とは無関係に、打つことでしか解放されなかった。(「打ち勝つ」という言葉があるだけに?)
それが、たった一度のある気づきがきっかけで、綺麗さっぱりとこの苦しみから解放されたのである。
パチスロはとっくにやめていた
やめられなくて苦しんでいたはずなのにこの見出しはどういう意味だ、と言われそうだが、今日この記事を書くまでに、パチスロをやめる為のヒントを求めて記事を読んでくれている人に対して、一番念頭に置くべきことを考え続けて決めたのがこの一言である。
考え抜いて決めたというよりは、一番最初に思い浮かんだのがこのフレーズで、事実経緯との矛盾を感じつつも、これ以上適した言葉はないと判断した。
改めて言い直そう。
私はもうずっと前にパチスロをやめていた。いや、止めようと初めて思った時点で止めていたのだ。この記事は「パチスロのやめ方」の話ではない。「やめていたのになぜ打つことがやめられなかったか」という主旨の話なのだ。
最終話前編のラストで綴った「最後に打ちに行った時のエピソード」の続きを書こう。
なぜ少ない投資の内に、帰ることができたのか?
私はこの疑問を持ったと同時に、ある強い矛盾に気が付いた。私が本当にパチスロをやめられないのであれば、いま帰宅途中の私は、パチスロ店に戻りたくてたまらないはずだ、と。
だって、そうだろう?
しかし実際には、そういう衝動が全くなかった。残ったものは、打ってしまった後悔と反省と、お金だった。
今までは、金が尽きてもう打てなくなるか、十分に打ったと思えるまで打っていたせいか、自分の思考がこの気づきに至れるルートを辿ることがなかったと考え、ひとまず私は、これまで打ちに行きたくなったシチュエーションを振り返ってみた。
一番よくあるパターンが「パチンコ店が視界に入った時」だった。私は日常的に打ちに行きたいという気持ちと向き合っていたわけである。ある時はパチンコ店が視界に入らないようなルートを辿って移動することもあった。
次にパチスロ台を見た時である。ショッピングモールのゲームセンターとか危ない。まぁそういう時はゲーセンで打った。数百円打てば満足できたので手軽だった。
この二つはパチスロに直結しているものなのでまぁわかるとして、振り返ってみれば、金の存在を意識しただけでも打ちたくなっている自分が、この時は妙に気になった。いつものことだから、今まで記憶の中にあるだけの自分の姿が、この時はとても奇妙に映ったのだ。
これは、パチスロがやめられないのではなく、何かがトリガーになっていると、そう直感した私は、これらのシチュエーションでいつも自分が考えることに注目してみた。
それが、「お金がない・増やさなきゃ」という衝動だった。
これと同時にはっきりと「おかしい」と思うことができた。なぜなら、お金に余裕がある時だって、お金を増やさなきゃ!という気持ちで頭が一杯になっていたからである。それがどういうわけか、パチンコ店や筐体が視界に入っただけで、お金がない増やしたいという気持ちに囚われてしまっていたのである。
つまり、不安。
私を支配していたのはパチスロの中毒性ではなく、自分自身で生み出した不安だったのである。
そう確信した瞬間、私の中で渦巻いていたパチスロに対するもやもやが一気に晴れたのだ。
これだ、自分がパチスロをやめられなかった理由だ! 俺はもうとっくにパチスロをやめていたんだ! 私が向き合っていたのはパチスロではなく、パチスロをやめたがっている自分だったんだ!
打ちたいという感覚は、やめたいという感覚の中にあったんだ!
カリギュラ効果
ギャンブルにはまる経緯は人それぞれだろうが、私の場合は心理現象でいう「カリギュラ効果」だったと推測できる。
カリギュラ効果(カリギュラこうか)とは、禁止されるほどやってみたくなる心理現象のことである[1]。一例としては、「お前達は見るな」と情報の閲覧を禁止されると、むしろかえって見たくなるなどの心理が挙げられる[2]。
ローマ帝国の皇帝カリグラをモデルにした1980年のアメリカ・イタリア合作映画『カリギュラ』が語源で、過激な内容のため、ボストンなどの一部地域で公開禁止になったことで、かえって世間の話題を惹いたことにちなむ[3][4]。ちなみにアメリカには「ボストンでは禁止」 (Banned in Boston) という慣用句がある。
この効果は、広告宣伝やテレビ番組でも利用されている。例えば、テレビ番組で、「ピー」などの効果音を付けて発言を聞こえなくしたり、モザイク処理をかけて映像の一部を見えなくすることにより、いっそう視聴者の興味をかき立てるなどである。
カリギュラ効果は学術的な用語ではないものの、その内容の面白みからいくつかのビジネス本において紹介されると言った事例がある[1][5][6]。
カリギュラ効果という名称は知らなくても、この心理現象はどこかで見聞きしたことがあると思う。
人は禁止と言われると逆にやってみたくなるものだ。それは正常な心理なのだが、これがギャンブルだと、そこに「本当はお金がほしい」という欲や事情がミックスされる。「禁止だ。やってはいけない」等という意識は、本心を何倍にも増幅させてしまうのだ。
私の場合、本当にお金がなかった。実家暮らしだった頃も、お金がないという境遇の中で育った。一人暮らしをした時も、歩き旅をした時も、東京での暮らしも、同棲生活でも、ずっと、お金がないという気持ちがあり、お金を増やさなきゃという気持ちと向き合っていた。
そこへ「パチスロ」というギャンブルが加わった。「勝てばお金が増える」という感覚と、「負けたらお金を失う」という感覚の葛藤。それが結論として「負ける事の方が多いから打ってはいけないもの」になったわけだが、これこそが、不安ばかりを増幅し、打ちに行きたくなる衝動を維持する病巣だったのだ。
記憶から消える打つ姿
なぜ帰ることができたのか――その気づきからこの結論に至るまで、思考と検証に当てた時間は数十分程度だった。帰路に着く運転中に考えた。
あれから一年と五ヵ月。スロットは一度も打っていないし、打ちに行こうという気持ちに悩まされたことは一度もない。本当にそれまでの苦しみがなんだったのかと気になるほどに、綺麗さっぱり断つことができた。今では打っていた時の自分の姿が、記憶の中から消えようとしている。思い出せる場面が少しずつ減ってきているのだ。
煙草もそうだが、禁煙も五年目になるとほとんど当時の姿が思い出せなくなる。煙草を吸っていたはずの場面の記憶が、吸っていない姿で思い浮かぶのだから不思議である。
一年と五ヵ月という禁パチ期間は、完全にやめたというにはまだ足りないかもしれないが、我慢や堪えるという苦痛を伴う必要がなかったまま継続できたと考えれば優秀な成果だと個人的には思っている。
今何かの中毒や依存症に悩んでいる人は、この最終話後編で綴った検証を自分に置き換えて考えてみてほしい。
自分が一体、何と戦っているのか。その正体を今一度、疑ってみてほしい。
貴方は本当に、やめていないのか。
読了、ありがとうございましたm(_ _)m